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日本語教育は英語教育と同じ轍を踏んではいないか

「昨日は宿題が多くて寝れなかった」
「こんな漢字、複雑すぎて書かれません」
「山田さん、ニューヨークで家を買ったらしいよ」
「10時の電車に間に合うために急ぎましょう」

さて、上記の表現の中で違和感を覚えるものが幾つあっただろうか。
日本語や国語の教師、編集や校正といった「言葉に携わる仕事」をしている人にとっては明らかに違和感のある文なのだけど、そうじゃない人にとっては必ずしも「誤文」だとは感じられないかもしれない。
ただ、日本語の試験でこういった答えを書くと確実にバツをもらってしまう。

これらの文はそれぞれ、以下のように書き改める必要がある(とされる)。

「昨日は宿題が多くて寝られなかった」
「こんな漢字、複雑すぎて書けません
「山田さん、ニューヨーク家を買ったらしいよ」
「10時の電車に間に合うように急ぎましょう」

1つ目の文は「ら抜き言葉」の典型だ。ただ、今どきの日本人が「寝られない」なんていう「正規表現」を使うのを耳にする機会はほとんど無い。
一方、2つ目の文は「書く」という動詞に文法規則通り助動詞「れる」を接続した結果生じるものだ。一応、助動詞「れる・られる」は接続する動詞が異なるだけで用法(受身・可能・尊敬・自発の意味を付加する)は同じだとされており、それに従えば「書かれる」で「書くことができる」という意味を表し得るはずである。この言い回しは年配の方が使うのを時折耳にする。ただ、日本語教育の場面では助動詞「れる」が可能の意味で用いられることはなく、「書ける」とか「できる」といった可能表現に特化した動詞を使うことが求められる。

この矛盾はもうおわかりだろう。「寝れる」は文法規則に反するがゆえに誤りとされ、「書かれる」は文法規則に従ったがゆえに誤りとされる。そうした判断に論理の一貫性は存在しない。
さらに、両者ともにある程度の実用場面が見られることから、「慣用的に使われている」という説明を一括りに適用するのも難しい。「書かれる」は文法的に正しいが、多くの人が「書ける」を使うので誤りとされる。けれども、「ら抜き言葉」は現代人の間にほぼ定着している感があるにもかかわらず正用とは認められない。
それで結局、学習者には「日本語教師が教える通りに覚えろ」と要求するほかない。それは極言すれば、「俺がルールブックだ」と宣言しているようなものだ。

また、3つ目の文「ニューヨークに家を買う」は格助詞「で」と「に」の区別を緻密に問うものだ。日本人でも、「ニューヨークでワインを買う」が正文で「ニューヨークで家を買う」が誤文とされる理由をきちんと考えたことがある人はそういないだろう。
「で」と「に」の区別は日本語学習者にとって非常に難しいものの一つだ。彼らの多くはこれらの助詞に英語の前置詞「in」や「at」を対置させてしまうため、「I live in Tokyo.」と「I took lots of pictures in Tokyo.」の「in」がそれぞれ「に」と「で」で使い分けられるといった日本語の感覚を共有するのが困難である。
この区別の難しさは、逆に日本人が「in」と「at」の両方ともに対して「に」や「で」という訳を当ててしまうためにそれらの使い分けが苦手であるという事実になぞらえてみればよくわかるのではないかと思う。

4つ目の文「電車に間に合うために」の「誤り」は表現の意志性に関係する。「ように」と「ために」はいずれも目的を表すのに用いられるが、前者は無意志表現との接続を、後者は意志表現との接続をそれぞれ要求すると「日本語学校では」教えられる。「間に合う」は意志を伴わない、結果として生じた出来事を叙述する無意志表現である。ゆえに、「ように」が用いられるべきだということだ。
ところで、わざわざ「日本語学校では」と書いたのは、「意志動詞・無意志動詞」という区分が日本語教育特有のもので、日本の公教育における国語の授業でこの区別を教わった人はほとんどいないのではないかと考えられるからだ。
だから、「間に合うために」のように、「ために」を無意志表現に接続する「誤用」は日本人の文章や会話でもしばしば見られる。それもそのはずで、俺達は「れる・られる」の区別のように「無意志・有意志」の区別を学校で習わない。自然な言語感覚に任せているうちに「ら抜き言葉」が使われるようになってしまうぐらいだから、「ように・ために」の無思慮な混用が生じてしまうのは当然といえば当然なのだ。

……と、日本語の誤用とその原因について書き連ねてきたが、実は本稿で述べたいのはそんなことじゃない。本当に投げ掛けたいのは次の問いだ。

冒頭の4つの文で、意味がわからないものがあっただろうか?

可能表現の「書かれない」は使用頻度がかなり低いと感じられるので微妙なところだが、前後の文脈が明確であればおそらくほとんどの日本人は解釈できるだろう。他の文はほぼ問題なく理解できるはずだ。

で、外国人に対する日本語教育の意義を考えてみよう。俺達は何を目的として彼らに日本語を教えているのか。
少子化によって伝統や言語文化の存続が危ぶまれる中、その正統な担い手たることを外国人に期待する……というわけじゃないだろう。(もちろん、それを自発的に望む外国人も存在はする)
日本語教育に求められるのは多くの場合、日本での進学や就業を希望する人もしくはその配偶者や子供が、日本のコミュニティに参加し社会生活を営む上で最低限必要なコミュニケーション能力を獲得できるよう手助けすることだ。助動詞の接続や動詞の意志性を分析し、日本人と同等(もしくはそれ以上)の言語知識を身につけられるようにすることは決して一義的な目標だとは言えないだろう。
それにもかかわらず、日本語学習者の評価は文法や語法の知識に拠る部分が大きい。英検の日本語版とも言えるJapanese-Language Proficiency Test(JLPT)では文法、読解、聴解の記号選択問題で合否が判じられ、ライティングやスピーキングの技能は測定の対象とならない。日本語学校の授業も作文や面接練習、スピーチといった言語活動の機会を設けてはいるものの、そこで重視されるのは表現の内容やコミュニケーション課題のクリアではなく、「正確性」や「再現性」であったりする。要は文法的に正確な文章を作り上げ、あるいは既存のスクリプトを参照し、それを頭に入れてスムーズに再生するという練習に重きが置かれる。
日本語教育関係者にとってはお馴染みの現象だろうが、ネパールやフィリピンの学生はコミュニケーションに積極的でスピーキング能力が高い。ただ、助詞の運用や表記に正確さを欠くことが多く、概してペーパーテストでの評価は低くなりがちだ。他方、ベトナムの学生などはテキストを用いた学習に慣れており、文法や漢字への関心も相対的に高い。それで試験の際は比較的良い点を取ったりするのだけど、文法や発音の正確さに自信が無いせいか、日本語でのコミュニケーションそのものには及び腰である場合が多い。

さて、こうした光景に既視感は無いだろうか。

そう、これは日本における英語教育の失敗と同じ道を辿っているのではないかと思うのだ。
文法理解や読解を偏重する学習や評価が原因で、ペーパーテストの出来は良いのに全然英語が話せない、使えないといった日本人が生み出されていった過去と同じ光景が映し出される。
さもありなん、おそらく日本語教育に携わる人の多くにとって外国語学習と言えばすなわち英語学習だ。たとえ当人にその意識が無かったとしても、言語教育のモデルは自身が受けてきた英語教育を反映させたものになってしまって不思議はない。

もちろん、ペーパーテストで測定可能な技能の習得に偏った英語教育がコミュニケーションを重視する方向へと舵を切りつつあるのと同様、日本語学習の教材でも会話や実用表現を重視したコンテンツが作られてはいる。
ただ、英語の「改革」はその中途半端さゆえに現場からも学習者からも依然として批判を受けている。日本語教育の「コミュニケーション重視」方針にしても、そうした改革の失敗のあり方まで忠実に英語教育の轍を辿っているように思われてならない。
たとえば、英語の教育改革で槍玉に挙げられがちなのが「英語による授業」の推進だ。従来の日本語による文法解説や訳読を中心とした授業を見直し、「英語で英語を理解する」ことを目標に教師が英語で授業を行ったり、生徒同士が英語で対話や議論を行ったりすることが推奨されているのだが、多くの学校では上手く機能していない。
もちろん、教師や生徒の英語力の不足が一因ではあるのだけど、より根本的な問題は、授業の思想の変革を唱えつつもその評価手法が従来のままだという点にあるのではないかと思う。つまり、ブロークンな英語でも構わないので円滑にコミュニケーションがとれるかといった観点が十分に盛り込まれず、依然として文法の理解や読解の正確さといった点の評価に高い比重が置かれている。そもそも、入試からしてペーパーテスト中心の受験システムが維持されているのだから、学生だってそこを目指して学習せざるを得ない。だから教師もそれに応えて授業を展開する必要に迫られる。

誤解のないように言っておくと、俺自身は文法理解など、従来評価されていた技能が重要でないとは考えていない。むしろ、ビジネスや学問の場で求められる表現や解釈の精度、抽象的で構造の複雑な文を読み解く力といったものを身につけるなら、文法や語彙に関する知識は不可欠だ。知っている平易な単語を連ねているだけでも何とかコミュニケーションはとれるという主張は、あくまでも日常生活レベルでの話に過ぎない。
けれどもそれは逆に言えば、社会生活を送るうえで必要なコミュニケーションが重視されるような局面では、小難しい文法や表現知識まで細かく習得することに大した意義がないということでもある。むしろ、こういうのは知識があればあるほど細かいことが気になってしまい、正確性よりも即応性や共感性が優先されるべき対話においてはそれが却って足枷となってしまいがちだ。
つまり、外国語を何に使うのかという目的に応じて学習のあり方や要求水準は定められなければならない。大学というのは高等教育の場であるから、入学者選抜に際して小難しい論文や高度な議論が理解できるだけの英語力が要求されるのは当然といえば当然の話である。ただ、それならばむしろ、「受験英語ではコミュニケーション力が育まれない」という批判そのものが的外れだと言える。システム上、それは大学に入ってから改めて鍛えることが期待されているものだと言えよう。
一方、日本の大学の多くが単に就職へのパスポートを手に入れるための場と化しているのもまた実情だ。英語とほとんど縁が無かったり、せいぜいがGoogle翻訳などのツールを駆使することで事足りるような使用局面しか存在しないような場で働くのであれば、高度な英文法や単語を使えるかどうかは大して重要なことではない。それよりも、多少ブロークンな英語であっても臆せずにコミュニケーションが試みられるという実践力の方が遥かに役立つはずだ。
それにもかかわらず、日本の英語教育は一律に前者のスキルを優位に置き、後者には副次的な価値しか与えない傾向にある。文法や単語知識を問うペーパーテストの成績が振るわなければ落第や不合格が待ち受けるが、英語がスムーズに話せなかったりするぐらいではそんな憂き目を見ることはない。
そんなわけで、学習者が高度な英語力を必要とするのかどうかを問わず文法などの知識が重視され、英語表現の演習においてもコミュニケーション力や発想のユニークさよりも表現の正確さが問われることになってしまう。それが日本における英語教育の現状ではないか。

で、この「英語教育」という言葉をそのまま「日本語教育」に置き換えても同じことが言えてしまうのではないか、というのが俺の実感だ。
現在日本へ留学している外国人の中にはもちろん高度な日本語力を必要とするような場を目指して勉強している人もいるのだが、多くは専門学校への進学や特定技能資格での就業を希望しており、必ずしも正確な文法知識や助詞運用の習得が不可欠だと言える状況にはない。むしろ、そうした不自由さを抱える中でいかに周囲の日本人と、あるいは外国人の日本語話者と意思疎通を図るかという実践的な言語運用が重要であるはずなのだが、そうした学習に割かれる時間は驚くほど少なく、また試験で定量的に評価される機会もない。英語教育と同じで、全く話せないけどテストでは100点が取れるという学生の方が、話すのは得意だけど細かい間違いが多いという学生よりも圧倒的に評価されやすいのだ。

こうした日本語教育の行き着く先は、と考えてみる。
おそらく短期的には、目に見える形で問題が生じることは無いだろう。今のところ、日本に順応できる学生は結局仕事先や進学先で営まれる社会生活の中で必要なレベルのコミュニケーション力を獲得していく。そうでなければ、日本での生活を諦めて帰国する。
ただ、そうした状況は長くは続かないだろう。日本で生活する外国人が増えるにつれて同郷人のコミュニティが拡大され、日本語力が不十分であってもそこで何とか生活できるといった人も現れてくるはずだ。そうすると、そのコミュニティは日本社会との接点となる日本語の存在感を希薄化させていく。つまり、日本社会から孤立した「異国」が各地に形成されることになる。そうした事態が望ましくないのは明らかだ。
何より、本来外国人が社会生活上必要な日本語スキルを習得する手助けをすべき日本語学校がその役割を果たせず、コミュニケーション力の向上が主として学校外の場に委ねられているような現状では、日本語学校はいったい何のために存在しているのかという話になる。

ただ、残念ながら先述した通り、俺達の外国語教育のイメージは日本の学校での英語教育に負うところが大きい。言い換えれば、コミュニケーションスキルを重視した外国語学習というのを十分に経験していないから、それをどうやって学ばせればいいかという方法論も持たない。少なくとも「実践的な日本語能力の涵養」という点では、多くの教師が手探りで授業を行っているような状況だと思う。
今後、日本語教師は資格化されて登録制になるらしい。その際に試験や講習、研修が課されるのだが、せっかくなので単なる日本語や学習に関する座学的知識の教授や試験だけでなく、コミュニケーションスキルの向上という観点を重視した講師養成や知見の共有というのがこの機会に図られて欲しいなとは思う。

まあ、それ以上に現場の教師各々が自己研鑽を積まなければならない部分ではあるが。

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