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数字依存症

それはつい昨日の出来事でした

 今朝も私は、起きるや否やnoteの全体ビュー数に目を凝らしていた。目覚めたばかりでまだシボシボしている眼に鞭を打ち、それを拷問にかけるかの如く、ギラギラ強烈な光を放つスマホの画面に釘付けになっていた。やれやれ、昨日メンタルクリニックに行って「数字依存症」と診断されたばかりだっていうのに。

「毎朝、noteの全体ビュー数をチェックしていますか?」
「はい」
「毎晩、保有している銘柄の株価をチェックしていますか?」
「はい」
「ご自身のTwitterアカウントのフォロワー数を一の位まで正確に覚えていますか?」
「はい」
「ある領域を囲む閉曲線で複素関数f(z)を積分するとき、その領域内でf(z)が常に正則であれば、その積分された値は必ず0になる、ということをご存知ですか?」
「いいえ」
「それでは、ムカデという意味の英語“centipede”の中の“centi”は、ラテン語で百を意味する“centinum”に由来することはご存知でしょうか?」
「はい」

 以上お聞きいただいたのは、「数字依存度チェックテスト」というれっきとした心理アセスメントなのだそうだ。これは昨日、僕とドクトル先生(彼は医師免許をもった正真正銘の精神科医である)との間で交わされたやり取りの一幕である。何だかよく分からない専門用語の“数々”は、そのときドクトル先生に教えてもらった。例えば、この「数字依存度チェックテスト」に対して「はい」と答えた数のことを「数字依存度スコア」というらしい。また、この「数字依存度スコア」が5点満点中4点以上だと、かなりの確率で「数字依存症」が疑われるという。よって、僕はドクトル先生から「数字依存症」と診断されたわけだ。参ったなあ、はあ。

数字の本質は「比較」

 「数字依存症」と診断され、アストロノミカルなショックを受けた私は、会社を休職することにした。そして、突如としてヒマになった。一般にヒマになった人間は主に2つの道を辿る。一つは退廃し発狂する道。もう一つは深く本質を考えるという道である。僕は『山月記』の李徴みたいに発狂してトラになるのはイヤだったので、考えることにした。数字の本質について。

 数字の本質とは何だろう?それは畢竟「比較すること」と言っても過言ではない。中には、数字の本質を「数えること」だと思っている人もいる。しかし、それは大いなる勘違いだ。「 0.999999999... ≠ 1 」と考えるくらい間違っている。なぜなら、なぜ人が数えるかといえば、詰まるところ、数えた後に比較したいからなのだ。数えた結果Aと別の数えた結果Bがあり、それらを比較する。これは、食欲、睡眠欲、性欲に“比肩”する人間のファンダメンタルな欲求だ。比較欲―

 もう一度、繰り返そう。人間は比較するために数えるのだ。でなければ、誰が指を折ったり、電卓を叩いたり、はたまた、PCでExcelをいじくりまわしたり、といった“しち”めんどうくさい作業を行うだろうか。これまで人間は「ホモ・サピエンス」やら「ホモ・ルーデンス」やら、いろいろテキトーなあだ名を付けられてきた。しかし、こうした呼び名は私に言わせると笑止“千”万である。その代わり、私は人間のことをこう呼びたいと思う。

「ホモ・コンパール(Homo Compare)」
比較せずにはいられないあわれな動物―

我、数学が得意なり。
ゆえに、数字の操るところとなれり。

 「親譲りの理系脳で子供の頃から損ばかりしている。」これは夏目漱石の『坊っちゃん』の書き出しではない。私のことである。そう、私は子供のころから数学が得意だった。大学入試センター試験でも満点を獲得したほどである。だから、自分のことを、数字を自由自在に操れる猛獣使いの如く認識していた。ちょうど、トラに変貌した李徴とばったり出くわしたものの、うまく手なずけ、ついには漢詩まで作らせてしまった、かのスーパービーストマスター袁傪のように。

 サインを積分するとマイナス・コサインになるなんて至極常識、ガウス積分の証明だって朝飯前だし、実対象行列の直行行列による対角化など掌を返すより易しい。しかし、私は最近、ある恐ろしい可能性に気づき、慄然としている。それは、実は私が数字を操っているのではなく、むしろ数字の方が私を操っているのではないか、という非常に恐ろしい仮説のことである。

というわけで、私はここで、この仮説を背理法を用いて証明したいと思う。

 もし、私が数字に操られていないとしたら。その場合、私は数字に踊らされることなく、自分を律することができるだろう。しかし、今日の自分の行いを振り返ってみようじゃないか。朝はnoteの全体ビュー数チェックから始まり、昼は毎分毎秒にわたる全保有銘柄の株価チェック、夕方はTwitterのいいね数チェックで、深夜は円周率が本当に無理数であるのかのチェック。と、もう本当に余念がない。朝から晩まで、数字から離れている時間が1マイクロ秒たりともないのだ。はたして、これが自分を律している人間の所為でありえようか?

反語、それに続く否定、からの矛盾、そして証明終わり。

嘘も百回言えば真実となる

 アルコールを飲みすぎると肝臓がダメージを受け、タバコに含まれるニコチンは肺を破壊する。これらは言うまでもないだろう。皆様もご存知、周知の事実と思う。では、翻って「数字依存症」の患者はどうか?ずばり、「数字依存症」は脳がやられるのだ。えっ、数字で脳がやられるって、そんな冗談を。むしろ、数字にいつも触れていたら頭が良くなるんじゃないの。そうお思いの方も多いだろう。

しかし、それは偽である。
このことは度・盛ルガンの法則から導くことができる。

度・盛ルガンの法則
高度に発達した資本主義社会においては、任意の無料情報(もちろん広告も含む)が提示する数字について、盛られていない数字は存在しえない。
(あるいは、こうも言い換えることができる)
盛られていない正直な数字は、ポスト資本主義社会において、表に出ることがない。あるいは、表に出ることがあってもすぐさま競争に敗れ、長期的には人目につくことがない。

 そう、数字依存症の私は、“四六”時中、数字を摂取せずには生きていけぬ身体になってしまったが、度・盛ルガンの法則によると、それら体内に取り込まれた数字はすべて盛られている情報、すなわち、嘘だというのである。そして、嘘は脳にとって明らかに毒だ。(文末註※1)つまり、私の脳は常に毒を欲している、ということになる。なんと!これは、驚くべき事実ではないか!
 
 解毒のため、これから私は、毎月1万円くらいをメンタルクリニックに差し出す所存である。治療費として、そして、脳内の毒をきれいさっぱり浄化してもらうため。脳みそから毒がいなくなってくれるのであれば、それくらい安いもんじゃないか。

 でもやっぱりこうも思う。1万円って結構な額だなあと。そう、脳内が数字という毒で侵されている私は、もはや1万円が高いか安いかの判断もつかないでいるのだ。

※1 この点において、私は河合隼雄氏と意見を異にする。皆様におかれましては、願わくは、こんな拙劣な文章ではなく、河合氏の良質な文章をたくさん読んでいただきたい。
※2 本小品はフィクションです。信じないでください。

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