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“鑑賞”する姿とは、『百川』の若い衆みたいなものかもしれない

落語「百川」──日本橋の料亭百川(ももかわ)に一人の田舎者・百兵衛(ひゃくべえ)が奉公に来ることから始まるこの噺は、百兵衛さんの田舎訛りを店の客があれこれ勝手に解釈して話が噛み合わなくなっていくさまがなんとも愉快な一席だ。

大体笑い転げて聴き終わるのだけれど、百兵衛さんの一言二言を大袈裟に解釈していく河岸の若い衆を見て、ある日急に「あれ、こういう人見たことあるな……てかこれ、私じゃない?」という気持ちになった。

目の前にあるものを疑うより先に、想像力が爆走

初めて百兵衛さんに対峙した江戸の人々は皆一瞬たじろぐ。百兵衛さんがウソみたいに訛るからだ。よく無事に江戸まで来れたねってくらい、ものすごく訛る(ヒアリングはできるのに)。

料亭の常連客である河岸の若い連中も、はじめは皆、突如現れた不可思議な言語を話す人物に、いぶかしげな視線を向ける。しかし、やがてその中の一人・初五郎さんが徐々に百兵衛さんの言葉にわかったような態度を取り始めるのだ。

すべては、初五郎さんが「主人家の抱え人(=奉公人)」を「四神剣(四神旗)の掛け合い人」と聞き間違えることから始まる。つまり、「御用を聞きにきた店の者」を、「(祭りに使用する)四神剣の催促に来た隣町の人」と早合点するのだ。河岸の連中は四神剣を質に入れてしまっているので、思いがけぬ催促(※勘違い)にただただ平伏する。

そして、勘違いが加速した末に、平時なら間違いなく「まぬけ」に見える奴を「親分とかアニキとか呼ばれる方」とまで言ってのけてしまう。

初五郎さんは、自分の目にうつる事実より、耳から仕入れたあやふやな情報をもとに想像力を駆使して、自分なりのストーリーを完成させた。この瞬間、初五郎さんにとっては事実がどうであれ、「わかった」ことが大事なのだ。

いつだって拡大解釈しちゃうし、わかった気にだってなる

舞台芸術や大衆芸能、映像、絵画、小説にいたるまで、物語(性)に対峙するとき、私は大体「初五郎さん」だ。意味などなくても良いことに、特別意味を見出したがる。答えのない余白の部分に想像を拡げて、自分なりの肉付けをしては納得したがる。そして、ひとたびこのモードに入ると、なかなか常時のバージョンには戻れない。 

そのつもりはなくても、自分の感性を活用しているという充足感は人を(というか私を)酔わせやすい。そしていざ言葉に乗せはじめると、その酔いはさらにまわる。身の丈に合わない表現を使えば、確かに「受けとった」はずのものが次第に自分の手からこぼれ出して、無意味にぶよぶよと肥大化してしまうことだってある。

納得して紡ぎ出したはずの言葉が、振り返ってみれば的外れだった……だけならまだしも、過去に私が書いたメモや文章のなかには、「覚えたてで使いたかったのかな、この単語」と思うほど、耳障りのよさげな空っぽの言葉を重ねたものも、恥ずかしながら発掘されている。

そのときはものすごく「わかった」気になっていたけれど、その後、見識を広げたり経験値を上げたりして、過去の自分があらゆる面で「わかっていなかった」ことに気づく。けれどその気付きを経て、また見える景色が変わってくれることも、まぁ、ある。

ちょっと乱暴だが、その繰り返しもまた、“鑑賞”の面白さなのかもしれない(と思いたい)。

さて、「百川」の初五郎さんは勘違いが明らかになったあと、こんな台詞を言う。

『あ、ちがった?w』

『ハッキリしてよかった(他人事)』

軽い、激軽である。私もこのくらいの身軽さで、今日も想像力を爆走させながら、大いなる楽しい勘違いに身を投じたいものだ。

このnoteも、続けていけばそんな勘違いの履歴になる、かもしれない。

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[注]じつは、私は今まで「百川」を聴いたときに、若い衆のなかで先導して聞き間違いをする人物の名前をはっきり聞いた記憶はないのですが(聞き漏らしている?)、便宜上下記サイトを参考に「初五郎」という名前を使わせていただきました🙏


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