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生存恐怖、なまなましい捨てられ恐怖、埴谷雄高のこと

「頭の狂った人間を病院に運ぶための黄色い救急車がある」という古い都市伝説があるが、私にはこれがひどくなまなましいのだ。内容の無根拠さとはうらはらにやけにイメージしやすいのも恐い。なんでだろう。黄色というのが妙に不気味の印象を煽る。子供の頃なら恐いのも分かるけど、今も恐い。というよりむしろ今の方が恐い。精神分析学上、これは興味深い問題だ。

フーコー的な「生権力」が支配的となった時代の人間には、多かれ少なかれ、「まともにしてないといずれどこかへ連れて去られるんじゃないか」という潜在的恐怖心がつねにあるのではないか。生存するということは、「強大な他者」に対してつねにびくびく畏縮しながら生きるということなのだ。このような恐怖をほとんど感じないで生きられる人間を、私は嫌悪する。

そもそも私は「外界」が恐い。「外界」は自分にいつ危害を加えるか分からない。「外界」にはその気になればいつでも私を拷問にかけることの出来る「集団的他者」が存在している。「外界」にはその気になればいつでも私の肉体を破壊することの出来る「動物的他者」が存在している。「外界」にはその気になればいつでも私を「地獄」に落とすことの出来る「超越的他者」がいる(かも知れない)。小学生のころそんなこと考えるのがこわくて、電気を消して眠れないことが多かった。とにかく私は「苦痛」が嫌なので、その主たる原因を孕ませている「外界」が、こわくてどうしようもないのだ。「痛みを感じる能力を有して生まれることは無条件に不幸なことだから、痛みを感じる能力を有する生き物は世代生産を忌避すべきである」という私の「倫理的提言」は、酔余の放言などではないのです。

現代人の心の底に流れている「連れ去られ恐怖」の話に戻ろう。

「連れ去られ恐怖」といえば、「言う事を聞かないと○○が来てどっかへ連れてってしまうよ」というあの叱り方のことを連想せずにはいられない。この種の「教育的おどし」には昔から世界各地に無数のバリエーションが存在している。だからたぶんそれなりの「効果」はあるらしい。それにしても、想像力奔放で神経過敏な一部の子供などは、この「誘拐される」という実存的恐怖に耐えられるのだろうか。下手すれば心がかなりまずい方向に病んでしまうんじゃないか。そんなことに心を配れるような大人にのみ、私は敬意を表する。

ともあれ今の私にはブギーマンやクランプスやナポレオンや鬼に連れ去られるイメージはぜんぜん恐くないが、ある日とつぜん黄色い救急車に運ばれるイメージには背筋を寒くさせられる。拘束衣のせいで暴れようにも暴れられず、猿轡のせいで叫ぼうにも叫ばれない、そんな旧時代の絵が自然と浮んでしまう。やがてそのまま病院に運ばれ脳の一部を切除されたり電気ショックを与えられながら、「まともな人間」に改造される。それは然るべき時期に「異性」と結婚し然るべき時期に「子供」を作ることの出来る「善良な納税者」である。「国民の義務」や「財産権」をこれっぽっちも疑わぬ「まっとうな国民」である。「反体制運動」など夢にも思うことのない「正常な人間」である。B級ディストピア小説がこれまでさんざん繰り返し反復してきたそんな光景に対するこの恐怖心は、いったいどこから来ているのだろう。

おさないころ私は股関節の奇病を治療するため長い入院生活を経験している。そのときにいつも抱いていた「胸苦しい疎外感」は今に至るまでずっと尾を引いている、そんな自覚がある。その病院はかなり古びた建物で、廊下は暗く、屋上に繋がっている最上階にはかつて自殺があったというまことしやかな噂もあった。ほとんどの患者が親元を離れた子供だということもあり、看護婦さん(当時の呼称)がなかば「親」のような存在となって世話をしていた。とうじの私のなかには「あまり看護婦さんを困らせるとまた捨てられるかも知れない」という漠たる不安がいつも根強くあった。「捨てられたこと」など一度もないはずなのになぜ「また」なのか、と思うかもしれない。これまで空気のように存在していた「家庭」から引き離されいきなり「病院」で生活を送るようなことになれば、どんな子供でも、「自分は捨てられたんじゃないか」と焦るに決まっている。入院しなければならない理由のあれこれをいくら懇切丁寧に聞かされても、学齢期以前の子供に到底のみこめはずがない。

私の自己愛の根底にいまも巣食っている「捨てられ恐怖」は、その入院時代に発現し肥え太ったに相違ない。もともと強い厭世的被害妄想癖の影響を差し引いてみても、そうした感触が強くある。人と少しでも距離が縮まると次第に猛烈な「寛容」を要求しだす「面倒臭さ」も、そんなところに由来しているのかしら。「心の病」の一番の問題は、当人がその疾病利得を手放したくないがために益々こじらせようとしてしまう点にある。私は自分の歪んだ自己愛を呪いながらも、それを「矯正」しようなどとは一瞬たりとも思ったことはない。そんな自伝的なことは今はどうでもいいか。

なまなましい、という言葉がこの頃気になっていた。「生々しい」ではだめで、なまなましい、と書かないと、特有のぬめぬめした質感が出て来ない。

「語り」において、なまなましさとは、何か。どんな種類の書き物であれ、なまなましい文体、なまなましい言語表現というのものが存在する。表現が即物的であればなまなましくなるわけではない。「同時代のノンフィクション」だからなまなましく感じるわけでもない。「あてどない妄想」をひたすら記述した文章でも妙ななまなましさを感じさせるものは多い。いっぽう蠅のたかる凄惨な孤独死現場をありのままに描写している文章を読んでいてもなまなましさをいちまち感じられない場合もある。読み手の感性次第といえばそれまでになりそうだが、私はあえてなまなましさの秘密を「真実らしさに圧倒され戦慄すること」のうちに見出したい。私の念頭にはいまある人物の顔がちらついている。あとはを彼に関係する話をちょっとだけ書いて終わります。

『死霊』という類稀な茫漠作品を書いた奇人・埴谷雄高は、人間が正真正銘の自由意志で行えることとして「自殺」と「子供を作らないこと」を挙げた。根が図太い人だったから「自殺」はついにしなかったけれど、子供を「地上」に送り出すほどの天性的図太さはなかった(というより「エゴイスト」の彼は子供ごときの為になけなしの稼ぎを使うことには我慢できなかったはずだ)。「俺は子供をつくるために生きているんじゃない」とか暴君的なことを言って妻に何度も堕胎を強制させた事実は「悪名高い」。ただ私は作者の伝記的事実などどうでもいいので、彼の人物像の詳細を知りたい人はその方面の書籍に当たってください。

先の自由意志云々とかいう雑な議論の「哲学的妥当性」はともかく、自分の「野獣性」「自然性」を乗り越えようとしている埴谷のような人物が地上に一定数存在しているのことに、私は「価値中立的な感動」を覚える。『死霊』等の著作から類推するに、埴谷はこれまでの人類が「生物の必然性」にいともたやすく服従してきたことに大いなる不満をかこっていた。「産んでは育て、生きるために食う」という世代生産の営みにわずかの疑義さえ挟もうとしない人類に、腸が煮えくり返っていた。生きること自体を無条件に肯定したがるそんな自然的鈍感さに、どうにも我慢ならなかった。諧謔と韜晦に満ち溢れいっけん遊戯的でさえある彼の思索文学の裏には、そんな莫大の鬱憤が渦巻いている。その極限まで濃縮された実存的鬱憤の向かう先は人間のような微小な存在者に止まらず、ついには宇宙の存在自体にまで向かってしまう。

宇宙に存在している何ものかが埴谷にとっては「断罪対象」だった。「もの食う自分」も含め、存在しているものは全て「誤謬の宇宙史」のなかの屈辱的発現でしかなかった。貧困も児童虐待もジェノサイドもナパーム弾による全身火傷も、「このような宇宙が存在していること」がそもそもの「原因」だ。「このような宇宙が存在し続けていること」が「原因」だ。埴谷はそんな「宇宙」の面前に峻烈な「否」を突き付ける。

彼が『死霊』のなかで「生物の責任」ひいては「宇宙の責任」を追究したのは間違いないが、いっぽうで彼はいまだ出現しない別の宇宙をとめどなく夢想する。というより『死霊』という書物の神髄はその度外れて執拗宏大な妄想にあると言える。目の前の「世界」があまりに不快で痛ましいものだから妄想に愉悦を求めずにはいられなかったのだろう。その妄想で「今ある宇宙」に凹みを加え、あわよくば乗っ取ることさえ出来るかも知れないと考えていた節もある。埴谷にとって「文学」とは「なぜこんなに不愉快な宇宙があるのか」という問題を巡る飽くなき探究妄想であり、それによって「今ある宇宙」を超克せんとする不可能性の妄執なのだ。

『死霊』は糞真面目な正気で読まれることを徹底して拒む本だ。それは終始一貫ゴシック的な長大虚構であるにもかかわらず常に切迫したなまなましい狂気が脈打っている。魔王的な哄笑が冷徹な理知性と融合している。おそらくそれは『死霊』が何よりも「死者による糾弾の文学」だからであり、「生きている奴らはみんな愚劣だ、恥を知れ」とやけっぱちになって叫び続ける「全否定の文学」だからなのだ。なまなましさは疚しさを刺激しないではおかない。「文学」は決まって「自分という固有の読者」にのみ開かれている。そこには「他の奴らではない、お前に言っているんだ」という尋常ではない凄みが発生する。読者はひるんでいる余裕などないのだ。

『死霊』を読んでしまった人は作者の妄想を受け継がずにはいられない。読者の誰もが埴谷的になって「まだ現れぬ宇宙」を夢見るのだ。埴谷くらい己の観念世界を真剣に長く泳ぎ続けた人間は、いない。

『死霊』のことを書いていると久しぶりに読んでみたくなりました。あの宇宙論的妄想炸裂世界にどっぷり浸かって全身の毛穴に沁み込んだ俗塵をすっかり洗い落とそうか。

じゃあまた。

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