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この世はギミックだらけ

プロレスにおけるギミックとはそもそも何なのか。これには謎が多い。プロレス通を自任する連中に語らせると歴史を紐解いたり蘊蓄を傾けたりし出してやたら長くなりそうな主題である。というかそもそもプロレスという興行自体が謎で覆われている。プロレス関連の著作なんかをいくら読んでもやはり不思議なままだ。「過激」な流血デスマッチの動画なんか見るとますます謎のヴェールが厚くなる。

でもそんなことを言い出すとおよそ眼前世界に認識しうる何ものかもが相当程度謎であり、したがってプロレスのみが謎に覆われているという物言いは偏見にも程がある。

ギミックとはさしあたり「人目を引くための仕掛け、触れ込み、工夫」である、という理解で間に合うと思う。たとえば、これから対戦する二人の間には過去こんな因縁があっただの、彼らは実は生き別れの兄弟だっただの、誰それは今夜誰それへの復讐のためだけに刑務所から脱獄してきただの、そんな人物設定がギミックだ。リングにおけるベビーフェイスとヒールの区別はそんなギミックに裏付けられている。プロレス観戦者はそういう嘘に騙されているふりをしつつ、怒声を張り上げまた応援するのだ。つまり観戦者もそうした仕掛けに取り込まれているわけで、まぎれもなくギミックの構成要素なのですね。

このごろの私は、このギミックというものが妙に気になる。いずれじっくり解体の対象にしてみたい。

ところで、ことを盛り立てるための「事前演出」はプロレスよりもプロレス以外でのほうがはるかの過激ではないか、と思う。マスメディア上でも、通俗小説でも、ネット上のコメント欄でも、あるいはその辺のありふれた噂話においても、「善玉」と「悪玉」の構図的区別はそれとなく存在している。そうした区分にとくべつ「理不尽」を感じることも少ない。むしろそうした区別が無に等しいときこそ「理不尽」を感じてしまうのではないか。「退屈な話」というのは善人や天使しか出て来ないのだ。ダンテ『神曲』の地獄篇と天獄篇を読み比べてみるがいい。

構図は認知の有り様をあらかじめ決める。「テロとの戦い」「聖域なき構造改革」「戦後レジームからの脱却」「原子力明るい未来のエネルギー」みたいなスローガンを統治者が広めようものなら、もはやそうした構図を離れて世界を見ることが難しくなる。プロレスのギミックはほとんど実害無しだが、「現実世界」のギミックは人々の視野を急激に狭くする。民族間の暴力を喚起することも珍しくない。

「それもこれも大衆が馬鹿だから」の一言で済む問題とは私には思えない。「死ぬほど複雑な現象世界」を認知可能な構図に「自動処理」したがる人間知性の「傾向」について、「人」はあまりに無批判ではないか。

「宗教」も「科学」も「哲学」も「共有可能性に開かれた説明言語」の集合体といっていい。「神が光あれとおっしゃったとき光が生じた」「生存上の諸条件に適応した生物は生き残りそうでない生物は滅びる」「無は存在しないが故に存在のみが存在している」などといった無数の説明言語を吸収しながら人は「大人になる」(個々人における「信じる信じない」「賛成不賛成」はこの際問題ではない)。

重要なのはその説明言語がすでに最初からすでに「公共的」である、という点だけだ。あらゆる説明言語(物語)はその内容如何にかかわらず何者かに対して語られていて(開かれていて)、そのような必然的傾向を私は「公共性」と呼ぶ。言語は「他者の理解可能性・合意可能性」に常に開かれているがゆえに、「物語構図」の「内在的欠陥」からはついに自由になれない。つまり人間による説明言語は、「比喩」や「人物描写」に付きまとう「どうしようもない粗雑さ」によって、常に「誤解可能性」にも開かれているのだ(そもそも物語解釈には「正解」も「誤解」もないのだけど、物語るサイドの印象レベルでそうした判断があることは認めざるを得ないでしょう)。

「死ぬほど複雑な現象世界」を「そのまま」に受容できる知性を人間は持たず、「物語」のフィルターを通して「さしあたりの理解」を積み重ねていくしかない、ということはいくらでも強調しておきたい(この文章からして既に「比喩」を含みかなりの「構図的単純化」も経ているし)。

巷に出て人々の言語を観察すれば、そこらじゅうギミックだらけだ。

殺人事件の被害者はよほどのことがない限り「悪役」を割り振られることはない(いっぽう加害者は一方的に悪人色で染められる)。「殺された男性は大変な部下思いで同僚にも慕われ云々」みたいな調子で感情移入しやすく紹介される。自殺者についてもそんな傾向が強い。そういえば、生前ボロカスに扱われてても死ねば急に善玉っぽくなる、あれは何なのだろう。これは日本だけに顕著な傾向なのかな。

どこかの「不倫騒動」や「お家騒動」が報じられる際も「悪役」は大抵いるものだ。そうじゃないと馬鹿で下世話な大衆は誰を罵倒していいかわからない。どんな態度表明をするにも手がかりは不可欠なのだ。

さいきん阪神タイガースは「サイン盗み疑惑」で方々から叩かれたが、その渦中でもっとも悪役とされたのは、二十一歳の野手に「暴言」を吐いたとされる矢野監督だった。スポーツ紙各社も映像メディア各社も、人気球団の監督を悪者に仕立てれば部数が伸びるだろうことを、直観的に知っていた。古今東西、人は他人を褒めるよりも罵るほうがずっと好きだ。怒れる人間はいつも生き生きとしている。

そうだ。「悪役」の存在はことを面白くしてしまうのだ。はっきりしない複雑な出来事をはっきりした物語に変換するうえで、こうした役回りは非常に便利なのだ。

われわれも同じことを普段やっている。ある人物の「悪い噂」で盛り上がっているとき(噂はたいてい悪いものだ)、たいていその人物は「われわれの敵」「我々とは異質な他者」として扱われている。その場にいる全員はそうした噂によって妙な結束感を覚え、それをかなり面白がっているだろう。これと似た現象はクラスの「いじめ」に見られますね。仲間から一旦ハブかれた人物は「そういえばあいつはあのときこんなことも」という具合にどんどん悪い方向に仕立てられていく。学校時代、僕も何度もそうなりかけた。狭いコミュニティにおいてこういう役回りに追いやられるのは酷なことである。人間のこういう部分、どうにかならないですかね。

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