いまこれを読まないと永久に読めないかも知れない

ごく卑俗な調子で「語学の天才」として伝説的に語られることの多い「言語哲学者」井筒俊彦は、私が長らく範とし続けている私淑の師なのだ。
「博覧強記」はいつの世でもいる。「雑学王」や「オタク」は掃いて捨てるほどいる。しかし井筒俊彦の知識欲は正真正銘の「求道者」のそれだった。ロシア文学を論じるときはドストエフスキーやプーシキンが憑依しているようでまこと鬼気迫るものがあったし、『コーラン』について書くときは生粋のムスリム的敬神性がテクストに横溢していた。ギリシアの神秘哲学、スーフィー哲学、『大乗起信論』などとあらゆる形而上学的叡智を「縦横無尽」に論ずる彼を遠巻きに見物しながら「節操のない雑食学者」と嘲笑う向きもあるだろう。重箱の隅を楊枝でほじくるような「批評」、誤読の指摘をしないではいられない向きもあるだろう。
それはそれで学術上なにかしら有用で、彼をただひたすら「稀有の学巨」として崇拝する盲従に陥るよりはずっとマシなのだけど、彼について語るとき、彼の生涯に内在し続けたあの差し迫った知的衝動への感受能力をまったく欠くとしたら、それは必然「浅薄」なものにならざるを得ない。
書物の読解にかけて、彼ほど真剣一途だった人はいない。彼は「いまこれを読み損なうと二度と読めないかも知れない」とあえて背水の陣を敷いて書物にかじりついた。
「読むこと」と「学問」に時間の大半を傾けている私にとって、彼によって描かれたテクスト群は、超え難い「理想像」を伝えて余りある。仰ぎ見ることの出来る「師」を持つことは、なんて過酷な快楽なのだろう。エマニュエル・レヴィナスへの有り余る敬意を「大袈裟」な身振りで表現して飽くことのない内田樹の気持ちがこの頃、ようやく分かりつつあります。

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