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閑話二題

4月26日という日

あれからもう一年、経った。
4月26日。亡き先妻の遺骨を、それまで納めていた霊園の区画墓から取り出し、同じ霊園の高台にある、事情ありの遺骨をまとめた、いわゆる「合葬墓」に入れてしまった、いや、投げ入れ、放り込んでしまった、その日だった。【記事】
まず私は、この4月26日と言う日を忘れなかったことに、何故だかホッと胸をなで下ろしたと言うのが正直なところだ。今までの長い月日の中で、生活に追われて妻の命日を忘れてしまい、その数日後に思い出す、と言った失態が何回かあったからだ。
そうして老いていく自分にとって、大きな身辺整理をしたあとの、この一年を振り返るならば、結局は妻の遺骨がどこにあろうとなかろうと、あの若かった頃、強いうつ病を発症していた妻を、鬱陶しがって病院へ連れて行くこともせず、ただ放っておいて、結果死なせてしまったという自責が少しも薄らぐ事はなかったと言える。だから、以前となんら変わることなく亡き妻は今も私の心の隅っこにいるのだが、それは、若いままの妻の優しい表情などを思い出すという意味に於いてではなく、病気に苦しがっていた彼女のつらそうなその顔を思い出すと言う意味に於いてなのだ。愚劣漢たる私が負った宿命なのである。 
とはいえ、ちょっと待て。テレビを、ニュースを見よ。画面いっぱいに映されているウクライナの悲惨な様子を見よ、泣き叫ぶ女子供の姿を見よ。いかに私の抱えている亡き妻の面影と言ったものがちっぽけであるか、それを知るが良い。悲しみは私だけの特異なものではない。この高度文明社会に於いても、未だ苦しみ、もがき、あがいている人たちが、たくさんいると言うことを知るが良い。苦しみは皆にある。そうならば、自己に秘めた悲しみを、心の中で弄び、いたずらに肥大化誇大化させてはならないのだ。そっと折りたたんでしまっておこう。
一年経って、いま私はそう思うのである。

「洞窟オジさん」

春になると気持ちは外に向いていくので余り読書をしなくなるのだが、それでも何冊かは読むことができた。
面白かったのは
加村一馬著「洞窟オジさん」


昭和21年生まれのこの方は、戦争直後という時勢下での出生という背景もあろうが、貧しい両親による厳しい養育と折檻に耐えきれず、十三歳の時に家出をする。行き着いた先は足尾銅山の廃坑。後から追いかけてきてくれた愛犬シロとともに、転々と「森の生活」を重ねていく。中でも面白いのは、逃げ出す原因になった、あんなに嫌いだった両親。食料を確保するため、親が山で狩猟や山菜採りをしていた、その方法を、そばで見ていた一馬少年が、のちに森のなかで生きていくための知識として(皮肉にも)フルに活用していたことだ。それと、森で生活していく中で「恐怖」といったものは段々に消えていき、青木ヶ原樹海での自殺屍体すら哀れに思い下ろしてあげるけれど、シロを失った後のたった一人で生きていくという「寂しさ」だけはどうしても、決して克服できないという結論を得たことだ。人はひとりぼっちでは生きてはいけない。
文章は、ある程度読み物として体裁が整えられていているけれど、全体としては彼の人生で起きた紆余曲折が淡々と書かれていて、それが却って読んでいる私に臨場感をもたらしてくれている。テレビ番組にも取り上げられたらしい。
読み進めるのが惜しいという、そんな気持ちにさせてくれる久々の本だった。

こごみ

見出しの写真は、山菜採り好きのおっさんからいただいたこごみ。大ざる一杯あった。早速ゆでて、醤油マヨネーズかつお節で頂いた。
春。田舎に生活して幸せだと実感できる季節である。