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みんな、いやしい、欲張りばかり

1,濡れ落ち葉

かなり年下の女とひっそりと恋愛をしていた2年前などは、もう少し艶っぽい記事も書いていたのだが、女の去って行った今の私と言ったら濡れ落ち葉そのもので、老醜の身体を横たえては自分の加齢臭に顔をしかめ、酒を飲んでは半分口からこぼし、何やら先ほどからぶつぶつと人生如何にあるべきかなどと自問自答する始末。
醜態まことに恥ずかしい次第で、相済まなく、読者におかれては今しばらくお待ち頂くよう。いずれののちにか再び、女の腿から滴る蜜を啜って饒舌となり、壺いじりで濡れた指をペンに持ち替え・・・以下略

1,汚れた大人たち

五輪という祭典の裏でかねの亡者達が悪行三昧。狡猾にして悪玉のT理事は無論の事であるが、賄賂を送った認識はあるのか、と聞かれて、そんな卑しい経営はしていない、社員を信じている、と口角泡を飛ばす勢いで全否定したにもかかわらず、部下が多額の資金とともに仲介を請託し、その資金提供を事前了解していた出版業界某会長のニュースを聞くに及んでは、清貧で潔癖を是とする私たち日本人の国民性などは、まるで偽言ぎげん、うそっぱち。銅臭ぷんぷんとさせた我利我利亡者たちが、スポーツの祭典の裏側で、政治家や理事たちがばらまく「正式スポンサー」という利権に、モラルの一片もなく群がってきていたのだ。

みんな、卑しい欲張りばかりだ。

と、
私の好きな作家、太宰治の遺書の書き損じにあったとされる「みんな、いやしい欲張りばかり、井伏さんは悪人です」という一節が突然に頭に浮かんできた。(井伏への不信感の詳細は猪瀬直樹ピカレスクを参照方)
確かに、
この社会、この国、大人たち、男たち、みんな、いやしい欲張りばかりだ。

市井を見よ。
福岡での保育園事故を教訓とせず、わずか6人の人数確認を怠り、園児を休みと思い込んだために発生した静岡保育園の三才児置き去り事故。会見を開いた当の理事長が見せた薄笑いに、私はなんだか背筋が寒くなってしまった。また脱いだ服と空になった水筒がバスに残されてあったと聞いては、暑さに耐えながら迎えにきてくれる大人を必死に待つ女児の姿を想像し、こんな野卑な私でも、胸の芯のあたりがキリキリ激しく痛んだ。
(子供は、親や、地区や、町や、地域、はたまた国、つまり大人全員の宝物なのだ。皆で大切に育てて行かなくてはならないと改めて思う)

2,「市に嘆けるキリスト」の光景

そんな汚れた社会にあって、時折、ほっとする光景に出くわすことがある。以前、近くの小さな駅につながる道路を急ぐ母と男児の様子を見て「町に嘆けるマリア」と題して記事を書いたことがあった。暗い工場地帯の一角でキリストが祈る姿を描いたペヒシュタインの絵と目前にある街の様子とを被らせた、梶井基次郎の「交尾」という短編があって、その光景を私が目前の母子に被らせた話だ。
さて、時は先日。
車で通勤している私は、毎日仕事が終わると、最近開通した広い道路を通って帰る。造られた道路は脇に広い歩道を持っていて、そうして道路は電車線路と交差するあたりがアンダーパスになっている。しかもほぼ毎日、乗った車がその近辺に差しかかると、先の信号のせいで多少の渋滞が起こり、私の車もずるずると徐行を始める。
とある日、目の不自由な初老の男性と黒いレトリバーの盲導犬がアンダーパスの歩道をこちらに向かってあがってくる光景に出くわした。つまり徐行している私の斜め左をこちらに向かって歩いてくるという図だ。薄暗い場所から明るい場所に現れて、こちらに向かってくるという老人と盲導犬。いやむしろわき目も振らず主人の脇で淡々と歩くこの黒いラブラドール。
私はなんだか得体のしれない深い感動を覚えた。それはほんの一時の純朴な光景だったけど、私の皮裏、双眼の奥では、ペヒシュタインの絵のごとく、その黒い犬だけが、まさにそこだけが絵として切り取られていた。
アンダーパスの暗い中で、薄く光を放つ男性と盲導犬が、一つの美しい絵画として網膜に焼き付いてきたのだ。
「ああ!」
私の車の横を脇目も振らず過ぎてゆくその犬を見ながら、
「お疲れさま」
運転席で私はそっと声ならぬ声をかけてみた。
もう一回、
「お疲れさま」

3,おまけ

見出しの写真は、ドキリとした新聞広告。やべえ!