阪神淡路大震災の日の思い出と、それから

 昨年(2020年)にTwitterに投稿した阪神淡路大震災のときの思い出がありましたので、26年目のこの日にこちらで加筆修正して掲載します。


 1995年1月17日の早朝、熊本でも震度1の揺れを感じ目を覚ましました。すぐにテレビをつけると関西で地震との速報。
 見ている間にどんどん被害の詳細が分かってきて、結局二度寝もせずにそのまま仕事に向かうことになります。

 当時指導員をしていた障害者施設でもやはり話題は地震のことが中心でした。
 地震後の混乱の中で、おそらくは障害を持った仲間達にも大きな困難があるだろうといても立ってもいられず、施設の利用者と一緒に、その日の午後には繁華街のアーケードで募金活動をすることにしました。

 その日以降、確か毎週火曜日に街角に立ち、障害を持った仲間達も「震災で被災した障害者のために募金をお願いします」とハンドマイクで訴えました。
 広用紙を6枚張り合わせた横断幕に墨で訴える文言を記し、毎回持って行っていた記憶があります。
 金額的にもそれなりに集まり、自分達のお金も加えて、地域の自分達と同じような施設が加盟している団体を通じて送らせていただきました。


 あの時は自分がこの熊本で、地震での避難所生活をすることになるとは露ほども思っていませんでした。

 それでも当時、報道される被災者や避難所の情報は自分の中で少しずつ沈澱してくれていたようで、その後の災害報道の度、自分なりに「自分なら~するかな」「こんなふうにすると上手くいくかな」というシュミレーションはしていたようです。
 そしてそのことが、2016年に起こった熊本地震の際、自分がいた避難所の運営にも生かすことが出来たのではないかと考えています。

 自分自身、現在は熊本地震の避難所運営に携わらせていただいた縁で、地域の防災組織への関わりを持たせていただいています。
 行政による資料もいただいてますが、災害時の様々な施策の中にも、プライバシーや、暴力、性的な被害への対策、多言語対応など、阪神淡路大震災の時にはなかなか報道され得なかった問題も含まれるようにはなってきているかと思います。

 広域な災害の場合、どうしても情報や物資の集約場所は必要になってきますし、避難所を運営するのもまたその地域における被災者であるのも事実です。
 皆の力で避難所の運営と運用(直接避難所を利用していない人への情報発信や物資供給)を良くしていくしか無いのかなと思ってます。


 この四半世紀の我が国での様々な災害の経験値の蓄積が、災害時に弱い立場になりがちな、女性や子ども、高齢者、障害者、言語やジェンダー上のマイノリティーに対して、阪神大震災の当時より少しでもより良い方向へと変わってきていると信じたいです。