身近なことからできる脱成長|三杯目のビールと大瀧詠一
ここ数年で「脱成長」という言葉をよく聞くようになりました。
世界中で経済成長を継続し続けた結果、地球環境への悪影響が目に見えるほどに顕在化してしまい、成長を至上とする資本主義を盲信せず「脱成長」を心掛けようという気運が高まっているように見えます。
また、社会や企業は成長を目指しますが、その成長についていくことができずに疲弊してしまう社員や精神を病んでしまう社員が多く発生したことも、「脱成長」への関心の高まりの要因のひとつかと思います。
人間の欲望に応えるかたちで商品やサービスを提供し、ニーズに応え続けることで社会は成長していきますが、その成長の過程で潰れてしまったり、過剰な成長の結果として住みにくい地球環境となってしまっては、本末転倒ともいえるでしょう。
しかし、地球環境や社会と企業など、関心を向ける対象が巨大なものであるため、一般の人にできることがイメージしづらく、言葉は聞いたことがあっても実際に「脱成長」に向けた行動を実践している人はあまり多くないのではないかと想像します。
個人でも実践できる「脱成長」は何かあるのだろうか、今回はそれを考察してみようと思います。
尚、成長を目指すことを否定はしていません。ひとつの考え方として「脱成長」を日常に落とし込んで考えてみるのが狙いです。
三杯目のビールのケーススタディ
以前、「働き過ぎない経済学」という記事を書いた時にも紹介をした『善と悪の経済学』の著者であるトマス・セドラチェクは、「三杯目のビール」というケーススタディを用いて、成長を盲信することへの懸念を表現しています。
「三杯目のビール」について書かれている部分をそのまま引用します。
この様に、本来は複雑な問題が存在している状況においても、「成長」によって問題解決をすれば、公平性を巡ったあらゆる問題を考えたり議論したりする必要はなくなり、三人の客はビールを飲むことができるようになります。
この「三杯目のビール」のケーススタディから考えてみると、「脱成長」というのは、いかに三杯目のビールを提供するかではなく、ビールが不足している状況のなかにおいても、よりよく過ごす方法を模索する考え方と言えます。
確かに便利な現代社会においては、何か不便なことがあったらすぐに調べて問題解決を計る癖が染みついています。
不便な状況においてその状況を楽しむことができれば、「脱成長」の考え方を体現できるようになるかもしれません。
解決せずに不足を楽しむ心の余裕を持つ
2013年に亡くなってしまったミュージシャンの大瀧詠一の何かの雑誌の記事で、非常に印象に残っているエピソードがあります。
無人島に1枚だけレコードを持って行くなら何にするか、というアンケートが行われていたそうです。これに対して大瀧さんは『レコードリサーチ』というカタログの1962~66年を持って行くと答えました。
なんとそのカタログに掲載されている曲は「全曲思い出せる」ため、ヒットチャートを脳内で再生していれば一生暮らすことができるとのことです。
そもそも「持って行かない」という発想があることに驚きます。「1枚だけしか持っていけない」という不足がある状況を、想像力をもって楽しみながら受け入れるアプローチをしようとしているのです。
何でもかんでも解決するために様々なサービスを立ち上げている現代において、こういった不足を楽しむ心の余裕を持つことは大切なものだと強く感じました。
僕も過去に胃の全摘出手術をしたときに、食事をすることができなくなった時期がありました。
何にも食べることができずに暮らしていることから、現代の日本社会は飲食業界の発展によって飽食の状態にあることに気づき、それに加えて「人はものを食べなくてもそこそこ生きていけるものなんだな」ということも学びました。
不足している状態はすぐに解決するだけでなく、その状態から何かを学ぶことができるということです。
先日、スマートフォンで音楽を聴きながら散歩をしていたところ、通信の状況が悪くて音楽を再生することができませんでした。すぐに回復する見込みもなかったので、この時は思い切ってスマホを片付け、本来再生する予定だった曲の口笛を吹きながら散歩をしたところ、これが案外気持ちのいいものでした。
京都で見に行きたいお寺があった時、素早く移動をするためにLUUPという電動キックボードのシェアサービスを使おうと思いましたが、のんびり歩いて向かうことにしました。時間はかかりましたが、おかげで街中にある色々なお店を発見することができたのです。
このように、発生した問題に対して、わかりやすく解決をするアプローチをするのではなく、その状況を受け入れて楽しみに変えていくアプローチをしてみることが、「脱成長」にも少しずつ繋がっていくのかもしれません。
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