見出し画像

《舌染红尘》中国語エッセイ翻訳チャレンジ 2 開封炒凉粉

 第一章 炒凉粉 ~開封~

  炒凉粉は古典的な開封名物だ。開封の大小の通りを歩けば、いたるところでその屋台を見ることができる。

 開封に来て炒凉粉を食べないのは北京で豆汁(北京の名物の緑豆の発酵食品で酸味があり癖が強い。最近はあまり見かけないという話。)を飲まないようなものだ。とは言ったものの、炒凉粉は豆汁がかなりの“クセモノ”なのに比べると、その味は万人向けで多くの人に素直に受け入れられるものだ。

 炒凉粉の材料はまずご当地産の红薯凉粉だ。红薯凉粉は見た目は全く地味な灰色でとても人目を惹かないシロモノだが、その柔らかいのにしっかりとしたボディは、鍋の中で幾度炒め返しても型崩れせず、口に入れるとたちまちとろけてしまう。红薯凉粉はこの料理にとって換えの利かないものなのである。そして、開封特産の豆鼓、ネギ、ニンニク、あらびき唐辛子等々を適宜加えていく。

 私は料理人が炒凉粉を炒めるのを見るのがとても好きだ。半メートルもある大きさの底の平たい大鍋がこれまた同じくらいの大きなコンロに鎮座し、コンロの半面からは炎が踊り、もう半面は黒々とした石炭が覆う。そして、その下の炉口と向かい合うように、鍋の中にはぷるぷるとした一口サイズの凉粉が鍋の半ばまでつみあがっている。

 客が炒凉粉を注文すると屋台の主人はすばやく中華返しでかき分けるようにして正確な分量の炒凉粉を取り分け、じゅわっ!と油を回し掛けしたら、豆鼓、ネギ、ニンニクなどを加えて高温で一気に炒める。すべての調味料がしっかりとまんべんなく炒凉粉に絡んだら、横にあるポンとお盆をひっかぶせて、蒸し焼きにすることしばし。この時豆鼓とネギ、ニンニクが焦げる香りが香ばしく立ち上り、鍋を取り囲んだ食いしん坊たちはもうよだれが止まらない。

 ベテランの客はこのタイミングで屋台のオヤジに「焦点儿!(焦がせ!)」と声をかけるものだ。するとオヤジも心得たもので蒸し焼きの時間を長めにしてくれる。

 凉粉を鍋から持ち上げると、その下には金色に輝く香ばしく焦げた一層が鍋底にグツグツとしている。このすべての調味料が溶け合ったタレが滑らかな凉粉にしっかりからまるのだ。

 開封の屋台の主人たちは元々蒸し焼きにするのに専用のふたを使わなかった。ただ小さなお盆を使って炒めあげた凉粉にふたをして仕上げるのだ。そして、そのお盆に炒凉粉を盛るとそのまま差し出すのだ。お盆はしっかり温まっているから、食べ終わるまで炒凉粉は温かいままおいしく頂ける。

 また、開封の特産品の红薯凉粉と豆鼓をはじめ、炒凉粉の材料はとても安価だ。こういった小吃(麺やクレープのような軽食一般をこう言う)が長く続いていく条件の一つは一般的な材料を使うというものだ。例えば、竜の肝や鳳凰の胆があったとして、そしてそれがすごく美味しいとして、誰がそんな高価なものを食べたことがあるというのだろうか? だけど、平凡な材料からできた昔からの味は、どれも何物にも換え難い輝きを放っている。

 たとえば20世紀、90年代初頭、私は北京は官園の自由市場で一軒の開封炒凉粉の屋台を見かけたことがあった。俄然興味をそそられた私は一つ買ってみたのだったが、一口試して大変がっかりした。

 彼らは豆鼓のかわりに黄酱を、柔らかくもっちりした红薯凉粉のかわりに水分を吸いすぎてベロベロにのびた绿豆凉粉を使っていたのだ。なので、出来上がった料理は豆鼓の香りもない、ぐずぐずに崩れてべちゃっとしたなんとも見るだに食欲が失せるといったものだった。

 貧困の20世紀、6,70年代にあって、これら小吃はほぼ絶滅期といってよかったが、そのさなかにあって炒凉粉は開封の大小胡同の至る所に隠れて作られ、往年の老食客を黙々と支え続けた。

 今、開封の夜市といえば全国に名を轟かし、各小吃が百家争鳴の戦国時代といってもいいが、その戦の煙の絶えぬ中にあってその淡々とした佇まいは依然として一大勢力をなしている。

 その長い歳月に磨かれた昔なじみの落ちつた味は、しっかりと地元の人々の原初の記憶として心の奥底に刻み込まれている。目まぐるしくうつろう変化の激しい世の中にあって、こういった昔からの定番の味は、我々の気持ちをほころばせ、懐かしのあの故郷のあの通りへといざなうのだ。

 思うにこれが”古典的”ってやつの力なのだ。

  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?