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読む前に読まされるな

「アンという名の少女 Anne with an E」の第1シーズンが放送終わりましたね。終わりかたがまた視聴者をザワつかせてましたが、私は今のところこのドラマを信頼しています。
「赤毛のアン」を、こう読んできた!という仕込み、そして、こう読めるんじゃない?という投げかけもスゴい。
原作をしっかり読み込んで愛してるからこそ、現代にどう読むかを挑戦的に投げかけてきて、それは今までのアンの読まれ方に対する激しい批判すら感じます。
名作は何度でも新しく蘇えり、読まれ直される。本物は新しい解釈をされ、次の世代に手渡され、時を経て長い時間を、時代をサヴァイブして磨かれていきます。


このドラマは配役も主要人物だけでなく、リンド夫人(有能なんだけど出しゃばりでウザくて、でも基本良い人で憎めない)やルビー・ギリス(派手で可愛いんだけど薄っぺらくて雑魚モテしかしない)のような脇役にいたってもピッタリハマるのも素晴らしいし、ドラマの中の、新しい解釈ひとつひとつが、そう!そうだよね!と腑に落ちる。たとえば、ダイアナの大叔母ジョセフィンおばさんは、ほんのりレズビアンであることをほのめかされています。もちろん原作にはそんなんないです。でも、だとしたら、やましい意味でなく、あそこまでアンを溺愛したのもわかるんですよね。遺産まで残しますし。そもそも原作のアンのダイアナへの愛情も、なにげに百合テイストを感じたりします。たまにギルバート邪魔に感じるし。

このドラマのアンは何度もたびたび「ジェイン・エア」を引用します。これも原作にはその引用はありません。けれど、ドラマの最初からジェインの言葉が出てきたときから、ああ、そうだ!「赤毛のアン」は「ジェイン・エア」と一緒なのだ!とノックアウトされてしまいました。
以前のnoteにも触れましたが、私の何度も読み返す本のリストのトップクラスに「ジェイン・エア」があります。それはもしかしたらアンの愛読者に共通のことなのかもしれない。どちらも不屈の魂を持つ、世界を自分で変えていく人間の物語だと思う。
「ジェイン・エア」は「嵐が丘」とともに、どこかメロドラマのような恋愛物語なような印象を受けがちだけど、これは「赤毛のアン」がメルヘン少女小説と読まれてきたことと同じくらい、納得がいかないカテゴライズだと思います。
「赤毛のアン」はむしろ少年漫画として、望むものを獲得するサクセスストーリーとしても読めるし、「ジェイン・エア」はピカレスク、カサノヴァみたいな漂流し遍歴する悪漢物語としても読めると思います。

私たちは本を手に取るときに、どうしてもそれを読む前からカテゴライズしていします。純文学か、娯楽小説か、ライトノベルか、恋愛小説か、メルヘンな児童文学なのか。
そして女性が書いたから、女性が主人公だから、子どもが主人公だから、という安易な判断で、読む前に作品が振りわけられるというもったいないことが多く起きています。ブロンテ姉妹も最初、男性として本を出版しましたし、ドラマの中にも出てきたジョージ・エリオットことメアリ―アン・エヴァンズもそのことを示唆しているものと思われます。(「ジェイン・エア」を読んでいたジョゼフィンおばさんがアンにプレゼントし、偽名を使わずにあなたが本が出せる日が来ますようにという)

文学の世界でだけなく、たとえばビートルズも。ロンドンではなく地方都市リヴァプールの労働者階級ということで、レーベルはパーロフォンというコメディ、コミックバンドのレコードとして出されています。ロケンロールなのに王道の音楽とはみなされなかった。
でもすぐにその影響力は爆発的に世界中に広がり、彼らの音楽の多様多彩さは、もうビートルズは一つのジャンルにおさまらない。一時期はオールディーズ扱いもされたようですが、それは尖った少年たちのロックであり、ポップにアイドルとして女の子たちに受け入れられ、クラッシックのようなアレンジや深みもあり、宗教的なストイックさと覚悟もあればパンクの要素もある。ビートルズそのものがひとつのジャンルなのではと思わせられるほどです。

漫画の世界でも、「ガラスの仮面」は、絵柄からしてキラキラお目めの少女漫画ですが、男性の読者も多く、その影響力は老若男女著名人にまで広がり、日本の伝統芸能の能にすら、紅天女という題目を作ってしまうほど。誰もガラスの仮面を読む男性を、なんだよ少女漫画なんか読んでとは言わないでしょう。

文学に戻って宮沢賢治も、子どもにも簡単に読めるように優しいことばで綴られてしますが、誰もあの作品たちを児童文学とは、子供向けだけの作品とはみなしません。むしろ子どもに理解できないであろう宗教的哲学的な精神世界まで描かれています。「不思議の国のアリス」も似たところがありますよね。

「赤毛のアン」も主人公が少女だから、舞台が王道の英国本国ではなく、遠く離れた植民地カナダの、しかもその首都からも遠く離れた島の端っこの物語だからと、その立ち位置だけでユートピアなカントリーのメルへン少女小説とひとくくりにされている気がします。モンゴメリもこれを描いたころは祖母や祖父を看取る、片田舎のオールドミスの家事稼業手伝いでしたし。

実際に「赤毛のアン」を読み進むにつれ、超絶リア充に育ってしまったアンに対して、少し物足りなさを感じるようになってくるのは確かです。
第一巻の赤毛のアンの最後には、すでにもう、アンは成長して美しくなり、試験も優秀な成績でパスして大学への奨学金を受け、ホテルのステージに詩の暗唱の名手として呼ばれる有名人になります。アニメの宮崎駿もアンが子ども時代を終えた時点で、つまらなくなったらしく担当を降りています。まあ、さもありなんです。そこに当初あった人間の誰しもが持つコンプレックスや飢えや渇望が、消え失せてしまったかのように見えるからです。
そして、アンシリーズを通してアンはキラキラとリア充の女性として、大学を卒業し、幼馴染にプロポーズされ、中学の校長先生としてキャリアを積み、幸せな結婚をして主婦になり、七人の子どもたちを産みます。
時おり、小さな作品を出版社に送って採用されたりしますが、大作は書きません。「だめなの、私は小さな日常を描くことしかできないの。私にそんな力はないの」とアンは言います。

アンの青春、アンの愛情、アンの幸福、アンの夢の家、炉辺荘のアン、虹の谷のアン、アンブックスはカナダの端っこのプリンスエドワード島でユートピアよろしく展開されていきます。ドラマが原作にないエピソードを加えていくのは、いささか原作が幸せな絵空事にすぎるからかもしれません。

モンゴメリは、アンシリーズでは描きたいことを描き切れていない感じもします。多くの読者の要望に応えたり、大人気の作品になってしまったがゆえ、親世代や世間の圧力もあったかもしれません。あるいはアンシリーズで書けなかったことを、エミリーシリーズで書いている部分もありますが、そこまで触れると長くなるのでまた今度書かせて下さい。

アンのドラマはシーズン3で打ち切りになってしまい、シーズン4の嘆願署名まで集まっているようですが、私はこの先、ずっとこの切り口で、アンを描いていってほしい。できれば、絶対、「アンの娘リラ」まで。

「アンの娘リラ」は、アンブックスの中でも異色の作品です。最終巻で、ついにアンのメルヘンなユートピアに見えたものには綻びが出てきてしまいます。第一次世界大戦、戦争が始まるのです。
この、最終巻を読めばおそらく、皆さんはアンをメルへン少女小説だとは、そしてモンゴメリを児童文学作家とは思えなくなるのでは?と思うのです。

前にも触れましたが、モンゴメリは晩年鬱病に悩まされ、睡眠薬を大量摂取して自殺したことが、最近、遺族によって公表されました。おそらく伏せられていたのは、赤毛のアンが幸せな少女のための児童文学として読まれてきたからでしょう。

でも、そうじゃない。アンの中には、現代を映し出す、さまざまな闇や、生き抜くヒントが散りばめられています。
子どもだけ、女性たちだけでなく、大人の男性たちにもぜひ読んでほしい作品です。特に「アンの娘リラ」は。

朝ドラ「エール」では、朝ドラらしからぬ戦争描写が話題になりましたが、「アンの娘リラ」の今までのメルヘンなアンらしからぬ、最終巻の戦時下での中での小さな村の人間模様は、アンやモンゴメリの読み方を変えていくと思います。
戦争だけでない、女性としての生き方、村社会での同調圧力、愛国と選挙権、政治で分断されるひとびと。日本の専売特許と扱われがちなアレコレは先進的と思われた欧米社会にも同じように巣食っています。

長くなってしまったので、次回に続きます。


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