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折り鶴に見る日本人の価値観

しばらく前、ウクライナに折り鶴を送ろうとする人たちがいるというニュースが報じられた。

ひろゆき氏やメンタリストDaigo氏が疑問を呈していた。

「千羽鶴とか無駄な行為をして、良いことをした気分になるのは恥ずかしいことである。というのをそろそろ理解して貰いたい。」

「実際は、誰と助けないのに、いいひとぶりたい人のエゴでしかない。」

「そもそも、千羽鶴にありがたみを感じること自体が日本独自の文化であってウクライナの人からしたら、何これ?な話なわけです。相手の気持ちがわからない親切はただの迷惑」

千羽鶴を送った人には申し訳ないが、私も同じように感じる。

思い出してみよう。
私の認識する千羽鶴の概念は、こうだ。
病気で入院したクラスメートのために、クラスみんなで千羽鶴を折って送る。
私たちには何もできないけど、無事を祈っています。早く良くなりますように。あなたは今、つらいだろうけど、一人ぼっちじゃないよ。私たちがついているよ。

そういう気持ちの表れ、相手への寄り添いだと思う。

ここで、ポイントなのは、2つ。
私たちには何もできないけれど、せめてもの想いで気持ちを送る。
病気で入院している子も、病気に対して、自分の意志では、どうにもできない。治療に専念するだけ。ベッドの上で何もできずに時間を過ごすことも多い。
具体的に手を動かすのは、医療従事者だ。

共通するのは、送る側・送られる側のどちらにも具体的にできることがないということだ。

東日本大震災でも被災地にたくさんの千羽鶴が届いた。
この時、気持ちはありがたいけど、もう千羽鶴は送らないでと被災地から表明があった。

場所をとるだけであって、その場では何の役にもたたない、むしろ人の寝るスペースや支援物資を置くスペースを占領する邪魔なものだったわけだ。

クラスメートの入院のように、送る側と送られる側にあてはめて考えてみよう。

被災地の人は、人の救助、寝食の確保、家の復旧など、目の前にやることがいっぱいである。
被災地ではない人は、ボランティアに出向いたり、募金したりすることができる。

そこに必要なのは、具体的な支援だ。

相手に今、必要なことは何か。
そのうえで、自分にできることは何か。
それをしてもらった相手はどう思うか。

想像して、自分の中で確かめることが重要だと思う。

日本の折り鶴文化は素敵だ。
何もできない中、相手が喜ぶことを、と相手に気持ちを寄せている。

だからこそ、使う場面を選んで行いたい。

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