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食うために生きるな、生きるために食え

というのは、ソクラテスの言葉だ。

食うために生きるな、とはなかなか過酷なことをいう。いま現代で、食うために生きていない人もなかなか珍しいのではないだろうか。

仕事が忙しい。だからこそ、仕事のために、自分が死なないよう食べるために、生きる。

かくいうわたしもその中の1人だ。
いや、「1人だった」という方が正しいのかもしれない。現在、私は前者の生き方を80%くらいの気持ちでしている。

しかし、その生き方が面白みのあるものかどうかは別だ。
きっと、前者の生き方は後者よりも保守的であると応える人が多いだろう。

けれど、自分を守って何が悪いのだろう。食うために生きて、何が悪い。
私はもう生きるので精一杯なのだ。
精一杯生きて、生きて生きて生きて。
目的が、生きる目的がわからないのだ。

食べるために生きる、と目的が明確な方が、もしかしたら生きやすいのかもしれない。

目的と手段を入れ替えた生き方であるから、きっと前者と後者では生き方が違うのだ。

しかし、食べるために生きることが100%になってはいけない。先ほども述べたが、わたしは現在、80%くらいにその気持ちをとどめている。そこまで食べることに一生懸命にならないようにしている。

なぜか。

前者の生き方が100%になった結果、私は壊れたことがあるからだ。壊れて休職して退職した。

そこまで考えなくても、なんとかなるものだ。それに気づかなかった。

休職して見上げた空の青さと、ご飯の美味しさは忘れられない。

その瞬間、きっと、私は生きるために食べていたのだ。
食べるために生きるご飯と、生きるために食べるご飯では味が雲泥の差だ。

前者は砂を噛むようなご飯。後者は美味しい、と泣きながら食べるご飯。

今は前者の生き方寄りであるけれども、私はいつか後者の生き方になりたい。

ご飯が美味しい、と泣いて食べたい。

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