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もしも暇で退屈なら、粉と水をいじってみてよ。

1人で過ごす休日の15時40分というのは、強烈な退屈の真っ只中にある(とする)。

暇を持て余した退屈の中にいると自覚したのならば、
潔く、意を決して、家にある1番大きなボウルを用意する。

用意したボウルへ、適当な量の小麦粉をドサッと入れる。
適当な量の水も少しずつ入れて混ぜてみると良いかもしれない。
僕は、粉(450g)とか、水(120g〜)は、必ず量るけれど。

今から、かんすいを用いないので中華麺とはいえないものの家で腹を満たすには十分美味しく食べれるチュルチュルの麺を自身の、この手で打っていく。

僕の、私の、1人の手から、旅が、始まったのだ。

塩を入れて、僕は好みでごま油も加えた未だ水和の進まないボソボソの小麦粉の塊が、大きなボウルに鎮座していると思う。

つるんとしたキレイな生地になるには少し時間が必要で、1時間も置いておけば良いだろうということで、
僕も一旦、昼寝をすることとする。
生地も寝かせる間は、僕も寝る。

仕事の日もそうやっている。
パン屋の僕は、朝早くに出勤して、半分寝てるような状態で夕方に帰ってくる。
そのまんま麺を仕込む。
本来時間のかかることも、夜に帰ってくる相方とご飯を食べるまでに、少し時間があるので都合が良い。

目覚ましをかけてもいいけど、
今回は休みの日なのでかけなくてもいいではないか。
ましてや、暇を持て余しているのだ、2時間寝たとて誰も困らないし、その方が生地もいい感じに緩んでいるだろう。

束の間の微睡みから目覚めた勢いで、緩んだ生地をボウルで叩いて丸める。
叩いたり刺激を与えるとグルテンが整うのでハリが出る。
この時の生地が瞬く間に「つるんっ」する様子に、
僕は必ず興奮してしまう。職業柄だと思う。

いじったら休ませるの繰り返し。
それが小麦粉との正しい付き合いなので、
平たく伸ばす前に、もう1時間くらい置いておきたい。

さんぽへ行くも良いだろうし、
ラーメンにするならスープを作ってもいいだろうし、
映画を1本観ても、ゲームをしてもいいと思う。
お風呂も良いだろうけど、
風呂上がりに粉をいじるのを嫌がる人もいるかもしれない。
僕はお風呂に入ってボケボケした後、
相方に買ってもらった袖のないダウンを見せびらかす様にさんぽするつもりだ。

家で打った麺を早々に切ってしまうと、
麺同士がくっついてひとかたまりになってしまうので、平たく薄く伸ばしたら、そのまんま冷蔵庫に入れて、茹でる直前に1本1本切って、グツグツバッコバッコ沸騰した大鍋へ直接放り込むのが、
良いということをつい最近考えついた。

退屈は、時より僕自身の内側に巣食って心を蝕む。
それは、コロナ禍で体験してきた。

そんな時、料理をする、手を使う、手で感じて考える ことでやり過ごしてきた。

必ずしも非日常にない時でも、退屈は僕の周りにフワフワと漂って、時に内側へと入り込んでくる。
Netflixにも、YouTubeにも飽きた頃、
退屈しのぎにさえ退屈する頃、
僕たちは改めて、粉とか水をいじってみたら良いのではないか。

しくじったら茹でてすいとんにしてしまえば良い。

餃子の皮を工夫する楽しさや、家でドーナツ揚げるその童心なんかは、暇でなければ触れることのない機微と言っても差し支えないのではないか。
サスティナブルだとか、SDGsとかそう言う難しいことが言いたい訳ではないけれど、
普遍的に、金銭的に負担も少ない、子供も出来ることとして、粉と水をいじるのは楽しいことだと僕は最近思う。

昼寝する間に生地を寝かせて、食べる直前に切って茹でることもできるので、生活のサイクルに馴染みやすいのではないか。
必ずしもやらなければいけないことではないけれど。

改めて、作ることは楽しいな、
そしてそれを食うことができて、
無理なく自分で続けていけそうだという手応えを
粉と水を混ぜ合わせた塊から、僕は感じている。

粉と水にかかわらずではあるけれど、
暇で、退屈している時に、何か作るなんでもいいから作るって言う、アナログへ立ち返ることは、良いことかもなぁと。

新約聖書の中に、「人はパンのみに生くるにあらず。」という言葉がある。
何かを食べていたらそれで満足する僕たちではないという意味なのだが、何か作る、余計なことかもしれないことをやってみる、そのための退屈や暇は、実のところ、昔からよく知っている友人なのだと、僕は思う。


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