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創作することからよりよく逃げる。

「人生とは、出会いだ。」とか、「出会いの中にこそ、学びがある。」とかってのは、これからも誰かが言い続けることだろう。

私も、そういうことを言う子かもしれない。

ただ、そうは言っても、いくら「人生が出会いだ。」としても、毎日、ヤッケになって「出会い」を探し回っている人もいないと思う。

出会いって、そーゆーんじゃなくて、偶発性の中に必然性を見出すキッカケ位のもので、必然性が先行する出会いは、なんか、ほんの少し、私には、ためらいが生じる。

今思えば、彼女との出会いもたまたまバイト先が同じだったとか、大学で知り合った唯一と言っても過言ではない友達は、学籍番号順に振り分けられた一年間の「ゼミ風」が同じだったからだ。

そんなことを言ったら、もうキリが無くて、今までの友達も、出会いもたまたま以外の何者でもない。

彼女はもちろん大事だし、友達も大切にしているが、彼らといる為にがんばったことなんてない気がしてきた。

いや、喧嘩した後くらいは、がんばったかもしれない。

ただ、共に日々を積み重ねることを疑ったことは無く、そこに関して言えば、なんとなくだった。

「何でこいつらと同じ給食を食べなきゃならんのか。」なんて考えなかった。

もし仮に、人生が、出会いの中で生じる学びによって彩られているなら、このことは、創作においての良い逃げ道であるように思う。

ステキな発想って、待ちわびてはいるものの、そうそう浮かび上がってこない。でもって、来る時は、来る。

ひねり出そうとして出てくるなら良いけど、毎日それだとしんどい気がする。

今日も明日も、
アイデアの便秘的な大人の苦しみが続くなんてもう…

「アイデア」と「出会い」って、字面も似てるし、この際、ほぼ同じって事で良いと私は思う。

ヤッケになって探し回るモノではないし、
もうもはやそういうのが、しんどい。

出会いや、アイデアを探し回るのめんどくさいから、やめる。その代わり、大切な人と、時に孤独に日々を蓄積すれば良いように思う。

いくらぼけーっとしてても、情報過多、モノにあふれた世界で生きてるのだから、なんかしら思うことはあるはずで、より良く生きようとするなら、なおさら「あるがままの自分」でいられなくなるほど何か琴線に触れる。

そういうの、感性の消耗だ。

何気ない日々の尊さに気づいたとき、それに追随する出会いがあったことと同様に、日々の創作活動の根っこは、アイデアや発想ではなくて、蓄積だ。

星野源くんが言うように、

髪の毛のにおいを嗅ぎ合って、臭いなあってふざけあったり、

首筋のにおいが、パンのよう、すごいなあって讃えあったり

くだらないのなかに愛が

あるなら、創作から逃げつつ創作を続けていける気がする。

大胆な発想とか、奇抜なアイデアは、旅先のトラブルと同じで、疲れちゃう。

何でもない日々から紡ぐ創作の糸は、
思いの外、綺麗な色をしている。

そうやって私は1人、色めがねをかけて、
よりよく、いや、都合よく「今日のエッセイ」から逃げた。

多分、明日も。

#エッセイ #note #コラム #創作 #せかいの許し方 #随筆


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