仕舞えない引き出し
高校を卒業してから4年が経って、今日、最後の大学の定期試験だって終わって、定期的に誰かにナニカを試されるようなこともなくなって、だから多分、これからは死ぬまで断続的に試され続ける日々が、今日始まったんだと思う。
試されることに慣れないうちは、今ドコでナニしてるかを自分に問いかけ、Who am I ?なんて言って聞きたくなっちゃうような、ただ唯一ヒゲが伸びてくると、「あぁ生きてる」と分かるような日々なのかもしれない。
地下アイドルを追いかけたり、インディーズバンドに陶酔するような高尚な価値観なんてのは、私には無いから、そうだなぁ時に、ダレカの誰振り構わない姿勢ってのも羨ましくなる。
いつまでたっても、どう見られているかが気になっちゃうんだよな、高校生の頃から、そのへんは変わらない。
高校生にもなると、オトコ友達も盛んだから、「オレよぉ、高校卒業したらヒゲ伸ばしてぇんだ。」なんてやつもいて、私にとってヒゲなんて剃るべきものだから、いわばゴミと同じで、そういうゴミ同然を、自分の顔で育成したいなんていう奴の気なんかは、少しも分からなかったな。
たまにいるでしょう、やけに自分の価値観と言うか、センスらしきものを「推してくる」のに、なかなか人の話を利かない、受け入れようとしない人。そういう人はさ、多分、寝ている間に、人のヒゲ剃っちゃう人なんだよ。
そういうことを、コトバとして否定するのはさ、ある程度少ない数の人だと思うけど、受け入れ難いコトってのは、誰の心にだってあると思うのだ。
「言わないことに理性が宿る」なんていってさ、寡黙でさ、あたかも多様に関して寛容なフリを、私たちはするんだけど、心の中じゃそれを「良し」とは出来ないでいるじゃない。「んーまぁ、」みたいな姿勢でいるのが、やっとじゃないか。
そういう心を、忘れたくないなぁ。「ぼくはそういうこと言わないから、」と言って、安易に人を否定する人を、否定したくはないと思うね。
オトナになるって言うのはさ、そういう「言う」とか「言わない」とかを試されているんじゃー無いと思う。
いつだって、自分の心が向かうベクトルの先には、自分の心がなければいけないな。と思う。
いつも自分の中に、ほら、サッカーの本田は言うじゃんか、リトル本田って、もう1人いるはずなんだよね、自分というモノが。
本当に高尚と言うのは、難しいし、孤独なことだと思う。
常に自分の心の有様を、反省せねばいけないから。
どうも、オトナになると、この反省する力が弱まってくような気がするな。
で、そういう反省する力を、これからの日々で、試されているに違いない。
心で「ちょっとそのヒゲは無いんじゃないか」なんて感じたまさにその時、心と向き合って、反省する姿勢が、より高尚なオトナだと思うな。
そういう姿勢が、ワカモノとの付き合いであると思うな。
答案用紙に書いた解答を、1度疑い、見直す姿勢は、これからも案外続くのかもしれないな。毎日、そういう風に生活できたら、なんだか近所の子供に優しくされるおじいちゃんに、成れそうではないか。
引き出せて、また仕舞うまでが、引き出しと言うものではありませんか。
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