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アイデンティティ

ここ数か月は、複合的で複雑性のPTSDがとうとう根性論で蓋を出来なくなっていて、月一の通院さえも出来ていない状況だった。必要悪の駆け込み寺の10秒診療のクリニックと、精神は一つの科しかない人智では、生まれてこの方、痛み止めで飛ばし続けてきた私の根幹治療が出来るはずがないのだ。

そんなわけで、今一度、拗らす前に逃亡してほしいからその建設的な方法論の過去記事を貼る。

ADDやAC系の認知ではなく環境由来の鬱だからだと思うのだけれど、既に記載しているように抗うつ剤や認知行動療法は効かない。それでも、数か月外出が出来なくなり、通院だけで出先で疲れ切って疼痛と筋肉痛に襲われたことで流石に危機感を抱いた。

エビリファイ1mgを1日1錠だけ処方してもらって飲んでいる。
それが効いているのか、プラセボか、自分の根性か、外出を心掛けるようにしたので今日もその予定だ。

要は「早く寝る予定だったけれど、どうしても筆を取りたくなったので、少しだけ打鍵することにした」という冗長な前置き。


書けることや、やりたいこと、やらなきゃいけないことも沢山ある。

海外ドラマを見ながら歌を歌って画材を揃えて絵画を描き続けて、粘土で様々な人体のカーブを作ったり。バケットリストとして、高級カスタムドールの発注をして、その衣類やウィッグやアイやメイクに興味を奪われたり。

でも現実は、引っ越しの期日は決まっているのに、引っ越し先も場所も荷造りも、仕事も保証人もお金もないという状況。ITのリハビリをしなければと思いつつ、上記の記事の延長として「IT人材のMBTI的な適材適所」や「夢を追って失敗しても滑り止めがある」という文章だって本当は書きたい。

どれも長くなるのがわかっているので、結局は、知識や論理より、今の私の時間の使い方には情動的な話が優先される。


私の実家や血族というのは、紛れもなく機能不全で、共感能力であったり不要責任や母性や父性のようなものの欠落が見られる。

倫理や道徳というのも近いけれど、プライドや頑固の裏付けの為の虚栄心の高さから世間体を何より重んじるために「リスクと天秤にかけて不必要に法を犯さない」。そこが、サイコやソシオではなく、NPDやBPD、ASDのような「一般道徳で生きていれば、極度の不気味を感じる。けれど、嗜虐性という加算的要素というより脳の欠落を感じる」という感覚だ。

これを痛感する出来事が、最近多かったので、それを記載したかった。「欠落した親の言い分に、戦慄する自分がおかしいのではなく、人道的な恐怖を抱くのは正常」と思いたいのだろうと思う。


自分の血筋や両親の思想や倫理観が、社会と離れていることには早い段階で気付いていたけれど「自分はまだ子供であり、大人になれば、親の苦労や複雑な事情が理解できる」と思っていた。

実際のところは、年を重ねたり、社会に出たり、人間関係を重ねる程に、両親への気味の悪さが際立った。

人と関わるように心掛けていたり、映画や読書が好きだったから、それらから影響を受けたことで「繊細」だと一族で一笑に付されていても利己を優先させずに人道を手放さずに血の呪縛を封じ込めたのだろうと思う。

無償の愛や、見返りを求めない愛情、目に入れても痛くないだとか、自分の命なんて惜しくないだとか、言葉にすると歯が浮きそうなことでも大抵の家庭環境では「家族愛」で成立していることが多い。

自分の夢を応援して学費を出したり、誕生日やイベントを祝ったり自分の好きなものを尊重してもらえる。子供は当然だと思い、親は時間も手間もお金もかける。

私は、幼少期に血族の連鎖を断ち切るために子供を設けないと自分を強く律した。機会に恵まれる度に、理解されない苦しみがあった。子供嫌いの自己完結した人間と思われることが多いのだ。子供の人権や自由の為になんでもしてあげられるのにと思った。


自己肯定感の低さが故なのだろうけれど、仕事でも人生でも、柔軟性を失うことで視野狭窄になって自分の可能性を狭めるのは避けたいのだ。

とはいえ、虐待の事実を認めないことは、他のサバイバーの為にならないし、世界の改善に繋がらない。インナーチャイルドの癒しに対しても建設的だとは云えない。

血族に対しての気味の悪さと、そこに生まれたことはずっと悔やむ。一方で、個人に対しての憎しみはさほどない。

両親は視野狭窄だから「いい歳して言い訳にする反抗期で、自分たちを最低な悪者で激しく憎んでいる」と完結しているようだ。

正直なところ、自分自身「今更相手に復讐したところで建設的でもないし自分の人生にプラスにならない」と言い聞かせているに過ぎない。残虐なことをしたとしても、大衆が同情しても余りある仕打ちを受けてきた。両親も、自分たちは正しいと信じているけれど、社会理念的の尺度で見たらヤバい事をしてきたという自覚があるからこそ短絡的な被害妄想になるのだろう。


本題に入っていないのにタイムリミットが迫っている。尻つぼみ文章が否めなくなるかもしれない。

切り離すのが一番良いのだけれど、社会構造的に両親を切り離すのは保証人や病気的にどんなに頑張ってもどうにもならないことも多いのだ。何度、幼い頃の養子縁組や施設に棄てられていればと思った。親権の繋がりのせいで一人で生きるにも説明が酷く面倒な上に理解もされない。

例えば、親から逃げる為に失踪したとしても、他人なら立派な犯罪レベルの問題で警察に何度相談をしていたとしても、親権がある限り、捜索されてしまうのだ。事件の被害者になっても、事故の被害者になっても、職務質問をされてもアウトだ。

そんなわけで、意固地になっていないか、大人げなくないか自分を顧みて、適切な距離感を模索することにしてみたのだった。


機能不全家族や、虐待、複雑性PTSDや、両親の精神異常に恐らくの病名など、具体的な話や理性的で論理的に何度も話の場は10年以上立ち向かい続けている。誰でもわかると思うけれど、彼らは自分に不都合なことは一切直視せずに相手が異常者であるという開き直りと逆切れを起こす。

誰でもわかることでも、行ってしまうのは、それこそ幼少期に自身の主観や感情や所謂アイデンティティを全て優先順位の最後にして、研究や論理や分析などを適切に組み立てないことは恥ずかしい事と罵られていたからだ。

上記の反応は予測できていたのだけれど、それが想像を絶するレベルな上に、それでも気づけないで囚われている人もいるのだろうなと思ったから打鍵を始めた。


本当は、具体的な発言を色々抜粋して詳細に記載しようとしていたのだけれど、眠いので省略することにする。

基本的には、父はサイコに近いNPDで生まれた時点で生物として親子という概念がない。計画性を持ってのことであり、トロフィーキッズだろうか。母はADDも充分他害タイプだけれど、ASDとBPDが激しい。それでも、云わば女性脳で情動主観だからと、訴えかけてみているのだけれど。

幼少期から、母は、謝罪や感謝が出来ない人だった。超亭主関白の父でさえも、その点においては今でも尻拭いをするくらいだ。


母は最初は「昔のことは忘れた」を貫いていた。その後は「性格上そんなことするはずがない」になり「タイムマシンがあればひとつひとつ説明できるのに」になった。

その後、私は具体的なグレーでもないどこに出しても恥ずかしくないレベルの虐待の事例を並べ立て始めた。

それに対して、ひとつひとつ主観的で冗長な、とても大人が書くとは思えないような「自己憐憫に塗れた言い訳」と「それを理解しないで誤解して受け止める私への嘆き」が大量に送られてきた。

私からすれば「誤解」という言葉を使う加害者というのは最も始末が悪いと思う。「した側」の気持ちがどうであれ「された側」が傷ついたのであれば「した側」が「相手を慮った、悪気がないのだから悪くない」と声高にする段階で相手の感情より自己保身を優先しているからだ。本来は「不本意であった、傷つけてしまった、申し訳ない」が来るのではないだろうか。

めちゃくちゃな人間だ。どんなに細かい話を出しても、こちらが事象があったという証拠を持っていると示した瞬間から「記憶違い」から「認識違い」という攻撃に転じた。最初から記憶は明瞭だったのだ。


幼少期は「私が間違ったことある?」「私は、聡明で色んな才能があったのに祖父に女性を理由に邪魔された」「あなたはどうしてそんなにしっかりせず、頑張れず、出来損ないなの」ノートルダムの鐘やハリー・ポッターのような人格否定と人権凌辱の嵐だった。

小学校1年生の自由画で全国賞を取った。その後は、真夏の暑い部屋に押し込まれて「亀は緑色じゃない」「定規を使うな」と怒号が飛び交った。

人格否定ばかりされて、生まれてきたこと、自分の言葉が届かせること、存在証明が幼少期からのたった一つの指針になった。画家を目指していたら上記が起きて、漫画家を目指してリビングで絵を描いていたら「人体構造がおかしい」と両親の間で描くのを辞めた後も馬鹿にされ続けた。

文章やネーミングセンスも馬鹿にされた。でも、それらのどれもが、友人にもコンテストにも全国賞にも地位にも評価されていたのだ。読書感想文で表彰されても、全国模試で表彰されても、怒られない安堵だった。

学年で1番でも、落とした1点が人間失格だったからだ。


今になって「相当な世間知らずで自信過剰で世界が自分中心に回ってることを疑わないお姫様」の印象が的確だと思う。大人にもなれていない人間に、人格形成の段階で人格否定され続けた自分には涙が止まらない。

愚かで年を重ねて少しは初老の反省期にでも入っていればいいのだけど。

古傷で死にかけの私を、上記の死体蹴りを続けた上で、テーマパークや旅行に遊びまわっている。セルフネグレクトや事務手続きや金銭的援助は、生まれつき搾取するのが当然の側で考えたこともないだろう。父も同じだ。

古傷でITで根詰めてから右脳や自由や人権で、インナーチャイルドを癒そうとリハビリをしている。絵画やドールもその一つだ。

先日、絵を目にした母は「贋作や既存の作品をモチーフにした方が売ってお金にしやすいからそうした方が良い」と言ってきた。伝わるかわからないけれど、他にも「お金にならないことをする権利はない」という、人権侵害が当然になっていることに絶句しながらも。

「まあ、そうだろうな」と、目の前の人間の愚かさと不気味さと、その遺伝子を受け継いでいる悲喜こもごも、笑って流して、心を閉じた。


家庭では珍しいだろうけれど、仕事では往々にしてあることだ。

ビジネスだって、左脳だけだと凝り固まって視野狭窄になって目的や現在地を見失っている事例をよく見かける。右脳と左脳を上手に使うことが、なんだかんだ一番成功しやすいのだ。

ただひたすら勤務時間を増やして高収入になっている人ではなく、余裕を持って上に行っている人たちほど、生け花や瞑想や、右脳や副交感神経を大事にしている人が多い。

中間管理職の妬み嫉みの不幸の連鎖で、残業やエクセルを電卓で叩いて確認するような世界だってきっとまだあると思う。

そんなのは「ビジネスの正解」でも「大人の正解」でも「社会人の正解」でもない。上記の成功者は、人生のどこかで年単位でわざと無職になってモラトリアムを作ってアイデンティティを確立している。自分の人生の優先順位を作ることで、周囲に手綱を握らせないのだ。


まあ、そんな色々がわかっていても、あの親を持ちながら傷つかないで生を続ける自身は無いのだけれどね。

母の弟は明確に母に嫌悪剥き出しにしているようだけれど、それさえも弟が拗ねてると言い続けているから怖い。おやすみなさい。

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