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泪が三日月を滑り落ちた夜に

帰り道、細く細い三日月が空に浮かんでいた。

空は青とも紫ともピンクとも言えないような、ぼんやりとした色合いだった。私は静脈のように空を覆う枝越しに三日月を見た。細く細い三日月。

私には、その三日月がこちらを向いて笑っているように見えた。決して楽しげな笑顔ではない。三日月から思い出されるのは職場の同僚の冷ややかな嘲笑の口元。嫌な笑顔だ、と思った。その笑顔を思い出して私の胸はしくしくと痛んだ。次第に暗くなる空がシャットダウンしていくパソコンの画面のように見える。

なんで私はいつも失敗ばかりなのだろうか。

上手くいかない。
何もかもが上手くいかない。

資料を作っても、計算をしても、うまくいかない。
お茶でさえ美味しく入れられない。

小さい頃からそうだった。

ドジっ子。

小学生の頃だっただろうか。私のことを揶揄するように誰かが私の名前の前にドジっ子と付けた。魔女っ子なら可愛いけど、ドジっ子なんて可愛くない。ただのいじめだ。

なんでも器用にこなす同級生や同僚たちを見ては、私は劣等感に苛まれた。あまりの自分のドジっぷりに病気か何かかなと思って親に聞いてみたけど、どうやら病気ではないらしい。

「落ち着いてやれば大丈夫よ」とお母さんは優しく言ってくれたけど、スピード感を求められる現代において、そんな悠長なことを言っていたら置いてかれる。ゆっくりも、やさしいも、のんびりも、聞こえはいいが、私には悪口にしか聞こえなかった。その言葉たちは決して褒め言葉なんかではなかった。真綿で首を絞められるような感覚。

コピー機の前に立つ私を見て、先輩たちはヒソヒソと笑う。
上司の横に立たされている私を見て、同僚たちがニヤニヤと笑う。

日々、少しずつ抉りとられるように私の心はすり減っていく。パソコンを立ち上げて、パソコンをシャットダウンするまでの間、彼女たちの笑い声も、私を見る視線も、全てが私に対する非難めいたもののような気がしてならなかった。

私は何事もなく今日という一日が終わりますようにと祈りながら、パソコンのモニターだけを見つめるようにして日々を過ごしていた。

楽しみといえば、帰ってから誰にも邪魔されずにゆっくりとお気に入りのテレビドラマや映画を見ながら過ごす食事の時間。給食の時間でも、食事会の時間でもなく、焦ることなく過ごせるたった一人の食事の時間だけが私を癒してくれた。

私がモニターに視線を向けるように空を見上げると、細い三日月のような意地悪な口で笑う同僚の顔が浮かんだ。

しくしくと痛んでいただけだったはずの胸に、ぎゅうと強く心臓を捻られるような痛みが走る。痛みは私の体を硬直させて、指先がしんと冷たくなる。全身に呼吸を行き渡らせるように私は鼻から大きく息を吸った。

冷たい空気が肺に入ってくる。酸素と引き換えに押し出される二酸化炭素は、狭くなった私の喉を十分に通ることができなかった。吐き出せなかった二酸化炭素に押し出されるように、私の二つの瞳からは塩化ナトリウム入りの水が流れ落ちた。

冷たい風が吹く。

腹か胸かは分からないが、身体のどこかに空いた穴に冷たい風が吹き荒んだ。私はお腹が空っぽだったことに気づく。そして今日のできことを思い出した。

今日は、送付直前の契約書にミスがあると指摘されて、契約書を作り直した。当然、昼食をとる暇なんてなかった。上司のチェックが早かったから幸い大事には至らなかったけど、私は当たり前に怒られた。はぁと肩を落とす私を側で見ている同僚たちの目線が刺さるように痛かった。

今日は昨日の夜仕込んでおいたビーフシチューを食べる予定にしていて、家に帰るのが楽しみだったのに。帰りに駅のお気に入りのパン屋で買ったバケットが、冬の風にさらされている。冷たく固くなっていくバケットが次第にじわじわと味をなくしていくような気がした。

とにかく切ない。悲しい。泣きたい。そんな夕暮れ。何が悲しいのかといえば、自分の不甲斐なさにだけど。

はあ、と小さくため息を吐いて、涙を右手の甲で拭う。私は進行方向から90度体を右に回転させた。真っ直ぐに歩けば、あと10分ほどで家に着くけど……。どうせ帰っても一人だ。なんだか今日は楽しみにしていたはずのシチューを食べる気にはならなくて、進行方向を変えた。

体を回転させた先の道が、私においでおいでと手招きするような気がした。入り組んだ住宅街。普段なら通らない道。空気が藍色を帯びていく。私と夜の境界線が次第に曖昧になっていく。このまま住宅街を進めば、もしかしたら私も夜に溶け込めるかもしれない。いや、もういっそ溶け込んでしまいたい。

そんなことを考えながら、私は住宅街を歩いた。どこかの家で暖色系の室内の電気がパッと点灯する。誰かが帰って来るのを待っているかのように、カレーの匂いや、焼き魚の匂いが、私の鼻を誘惑した。

実家の母が作るカレーを思い出して、私の目からはまた涙が溢れた。帰れるなら、家に帰りたい。暖かい部屋でお母さんの作ったカレーが食べたい。カレーもビーフシチューも大差ないような気がするけれど、お母さんの作ったカレーは格別なのだ。

そんなことを考えながら、住宅街の知らない道を歩いた。からっぽの胃の中で、食欲と郷愁が入り混じる。そそるような刺激的な匂いを掻い潜って、遠くから花の香りがした。私は華やかなその香りに誘われるように歩みを進める。

香りの突き当たり。そこには、冬の最中さなかにしてはあまりにも煌びやかに花が咲き誇る家があった。緑にピンク、赤や白、紫にオレンジ。藍色の空気の中でも、目を引く色とりどりの植物群。静かな住宅街の中でその一角だけが、別世界のようだった。

生い茂った植物の向こう側に可愛らしい家があるのがわかった。絵本の世界にでも出てきそうな可愛らしい平屋建て。それこそ家の中からシチューのいい匂いがしてきそうな。きっとこの可愛い家のシチューならホワイトシチューだろう。鶏肉はほろほろで、バケットじゃなくてごはんにかけたくなるような。

私が絵本の中の女の子なら、間違いなくこの家に潜り込んで、シチューを盗み食いして、ベッドで勝手に寝ちゃうだろうな、と私は思った。そんな想像をして、私はふふ、と思わず綻んだ。

門扉の向こう側にチラチラと光るものが見える。
なんだろう、あれは。
家の中で光ってるみたいだ。

私はドアが開いているのに気づいた。私が見たチラチラと光っている何かは家の中にあるようだった。入ってはいけないと思いながら、私はむせかえる花の匂いをかき分けて、家の中に入った。

家の中はいたってシンプルだった。そして誰もいなかった。モデルルームよりもがらんとしている。人が住んでいる様子は無い。部屋の真ん中にテーブルが置かれ、その上に地球儀より少し大きい、かなり大きめのスノードームが鎮座していた。部屋の中をぐるりと見渡したが、生活感のない家だった。アトリエか何かだろうか、私はそんなことを考えた。

外から見えたチラチラと光っていたものはスノードームの中の雪だったのかもしれない、と私は思った。しかし、こんなに大きなスノードーム、どうやって雪を散らすのだろうか、と思いながら、ガラス部分にそっと手を添えた。私の添えられた手に反応するかのようにスノードームの中の雪が、ブワッと舞う。

雪がスノードーム全体に広がって、そしてゆっくりと落ちていく。するとスノードームの中に細く細い三日月が浮かび上がった。私がさっきまで見ていたのと、今日の夕方の空にあったのと、同じ三日月。

突如現れた三日月に驚き、私はスノードームを見つめた。よくよく見るとそこには小さなリスが何匹か忙しなく動いていた。どうも餌を運んでいるようだった。私の目はスノードームの中の可愛らしいリスに釘付けになった。

リスは三匹いた。どれもとても小さく、少しずつ特徴が違っている。しっぽが短いのと、耳がピンと立ってるの、背中の縞が波打っているリスの三匹だ。スノードームの中には洞窟のようなものがあり、三匹はどこからともなく餌をとってきては、洞窟の中に運んでいるようだった。冬眠でもするのだろうか、と私は思った。いそいそとどんぐりを運ぶリスたちはずっと眺めていられるくらいにかわいい。

三匹のうちの一匹、短いしっぽのリスがころんとこけた。手に持っていたどんぐりがコロコロと転がる。どこに転げていったかわからないどんぐりを一生懸命探している様子が可愛らしい。

その様子を残りの二匹が指さして笑った。
ずきんと私の胸が痛んだ。

「私みたい」

私は思わず独りごちた。私のすぐ目の前にどんぐりが転がっている。とってあげたいと私は手を伸ばしたが、ガラスに阻まれて私の願いは叶わない。こんこんとガラスをノックしてみたが、リスたちには聞こえていないようだった。

キョロキョロとしている短いしっぽのリスがやっとのことで落としたどんぐりを見つけると、それを拾い洞窟へと運んでいった。私は小さくガッツポーズした。

リスたちは再びどんぐりを運んでいく。しかし、しっぽの短いリスは、洞窟の入口にぶつかったり、転んだりと失敗を繰り返した。それを見ている残りのリスたちがバカにするように笑っているのがわかる。

私は「頑張れ」と言いながら、思わずスノードームを抱きしめた。胸が熱くなり、ふいに涙がこぼれた。私がこぼした涙はスノードームのガラスを通り越して、スノードームの中に落ちた。そして三日月の上をつるりと滑ると、地面にポトンと落ちた。

一滴の涙が呼び水となったのか、突然スノードームの中では雨が降り出した。リスたちは慌てて洞窟の中に隠れた。ちらりと困ったように洞窟から顔を出して空を見つめている。

「ごめんなさい」

なんだかこの雨が私のせいのような気がして、私は小さく謝った。せっかく冬眠の準備をしていたのに、と申し訳ない気持ちになった。

ザーザー降りの雨の中、短いしっぽのリスが洞窟からバケツを持ってきた。そして、雨を気にする様子もなくバケツをひっくり返して地面に置いた。ポコン、ポコンとバケツの底を雨が叩く。太鼓を叩くようにリズム良く雨が音楽を奏でた。

すると短いしっぽのリスは、雨が奏でる音楽に合わせてダンスを踊り出した。陽気に行こうぜ、と言わんばかりだ。
初めはその様子をバカにするようにみていた二匹だったが、楽しそうに踊るリスを見ていたら次第に楽しくなったのか、三匹は一緒になって踊り出した。

部屋中に陽気な雨音が響く。

「あれ? 雨?」

私が思わず振り返り外を見ると、さっきまで晴れていた空からぽとぽとと雨が落ちてきていた。
私はその音を聞いて、いてもたってもいられずに、リスたちと一緒になってダンスを踊った。

私のスカートはひらりと揺れて風を起こした。それとほとんど同時に、外から風が入ってきた。スカートがさらにふわりと舞った。スノードームの雨は私のスカートが起こした風にかき消されるように、ぴたりと止んだ。

雨が止むとスノードームの中の三日月がキラキラと輝き出した。三匹のリスたちはハイタッチをして、また三匹で踊り出した。

開いていたドアから月の光が入り込む。
部屋を出て空を見上げると、満月でもないのに煌々と光る三日月が優しく微笑んでいた。





おしまい




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