既読スルーにノックする。

私が小学生の頃、交換日記全盛期だった。
あの子とあの子と3人で回すノートと、また別の子とふたりで回すノートと…、一体何冊あったのか思い出せない。

順番が回ってきたら書いて、書いたらまた次の子に回して。

中学生に入ると手紙と家電と少ししてからメールのやりとりが始まった。
憧れの先輩との手紙のやりとり。仲良しの先輩が間に入って届けてくれたのだけど、ちゃんと手に渡ったのかドキドキし、返事がくるまでの時間も楽しかった。
家電での会話は一層ドキドキした。
息継ぎさえも聴こえるような距離なのに、でも阻まれる確実な何かにやきもきしたり。

メールも好きだった。
シンプルで好きだった。

それから少ししてLINE等のSNSが主流になった。
LINEも便利だ。
非常によくお世話になってる。
でも、ときどき少し苦しいーなーと思う。

リアルタイムでやりとりができ、反応が早くて、情報も多くて、その分、タイムラグに意味のない意味を考えてしまって、行間にもない感情を探したりして、酸素が薄くなる。

次第に送るのも返信を読むことも怖くなる。

そんなとき私は、ドアをコンコンとノックし、呼びかけるイメージをする。

「○○さんいますかー?」

ノックの勢いやテンションは場合によって異なる。
隣の教室の幼なじみを呼びに行くような時もあれば、職員室にいる担任に質問に行くような時、保健室の先生に転がり混むような時もある。

でもノックさえ、できないこともある。

ノックができず、
呼び鈴を押すとき、
襖を少しだけ開けて中を覗くとき、
聴診器を胸に当てるようなとき、
糸電話に耳を傾けるようなとき。

そんな時間はとても長く感じる。

あるいは、何も動けなくても、情報が入ってきてしまうこともある。

知りすぎたくないのに、
ちょうどいい距離でいたいのに、


すりガラス越しに物陰を見るような、
パーテーション越しに薫りで気配を感じるような、
教室の隅のカーテンにくるまっているシルエットを確認するような、
校内のどこかから響く吹奏楽の音色で誰かの存在を確認するような、

そんなこともある。



ノックするのは怖い。

ノックしたドアの先に
相手はもうそこにはいなかったり、
相手がぐったりしていたり泣いてたり、
友だちと笑ってこちらに気づいてなかったり、
開けた瞬間クラッカー鳴らしてきたり、、


わからないから怖い。

でも、私は今日も扉をノックする。

隣の家のおばちゃんに「ごめんくださーい」と回覧板を渡しに行くように、ノックする。

伝わらないこともあるけど、
伝わる伝える届け合う楽しさがあるから

私は今日もノックする。





時折訪れる、誰かが書いた文章を無性に読みたくなるときに、ご利用いただけたら幸いです。