考察といえば考察

先程キチゲ解消の上で呟いた謎ポエム
の解説と言えば解説。考察といえば考察


君は君であり僕である主観に囚われて

君の隣柔らかな手を振り払う

僕の価値に呑まれる意味は?

既に拭えない

「依存される」より豊かな愛

…何だこれ…って思う人しかいないだろう。

これは巷でよくある、現代人のSNS依存を題材に人の愛し方、愛され方を描いた(かのように演出された)謎ポエムである。

何故(演出された)という表現を作品紹介に含むかというと、このポエムの制作時私は

↑の事なんざ一切考えていなかった。

「ただ適当にキチゲ開放できればいいや」
「それっぽい文章作れればいいや」
って考えで適当に構成していた。

自分の趣味である歌詞的(?)文章の制作、それさえ達成できれば満足。
現代におけるSNSの依存により人との関わりの変化を嘆いている…何てことは更々ない。
訴える気もない。

ただの深夜帯における空虚時間を創作における欲求不満で埋める浅はかな行為である。

そして、ここでタイトルの話になるのだが
『考察といえば考察』という曖昧な表現は、このnoteがそもそも
「今から適当に作った文章にそれっぽい考察当てはめて遊ぶヨ〜♪」

という、折角作者のキチゲを発散させるためにこの世に産み落とされた詩を真面目に考察しようとしない世にも奇妙なクソ記事だからである。
何ならこのタイトル回収も執筆中に考えた。

というわけで総括すると
全てが後付要素、筆者の自己満、そして適当。
こんな理不尽な扱いを受ける詩と対面することに耐えうる選ばれし勇者のみ、これから始まる謎考察を楽しんでいって欲しい。
ということである。










考察

まずあの前半の酔拳ぶっ放したような文章を読み切った読者を素直に称賛しよう。
ここまで辿り着いた読者はきっとこれから始まる、作者が愉悦感を得ることしかメリットがない考察を読む試練にも耐えうる、精鋭なのであろう。
それでは、早速始めていこう。

「君」と「僕」における「関係性」

君は君であり僕である主観に囚われて

〈出典〉noteを見た時に最初に見たであろう詩

まずこの文章である。
ここで描かれている「君」と「僕」、これは「同一人物ではあるが描かれている側面が違う」という近代JPOPにもありがちな表現である。

今回の文章における「君」と「僕」は、「現実に生きる自分」と「SNS上に生きる自分」という側面に分かれたものだろう。

その後に続く「主観に囚われて」というのは、文章の切れ目により意味合いが変化する。
それを理解するために必要なので、二番目の文章をここで引用しておこう。

君の隣柔らかな手を振り払う

〈出典〉「柔らか」という表現を使ったことを
若干後悔している作者による詩

「僕である主観に囚われて」で区切った場合、「僕」というのはいささか「君」よりも歪な性格…軽く言えば性格が悪い可能性を持つ。
そんな「僕」を持つ「君」が、現実で隣で座っているような、関係性が深い人と手を繋げるのだろうか…という葛藤を表すことになるのだろう。

しかしもっとも、もし本当に現実でそこまで仲良くなれるような人がいるのであれば、そんな葛藤を超え人と手を繋ぐことが出来るはずなのだが?と思う人もいるだろう。

かく言う私も書きながらそう思った。何せ私には「自他の欠点を含めお互いに受け入れることで始めて深い関係に辿り着くことができる」という考えがある。
「僕」という人間的(この記事では、人間的というのに「大多数が客観的に見て正しい考えを持つ」という要素を持つ)に不完全な存在を受け入れさせることができない、それを欠点としそもそも他人に理解させるのを拒否してしまう。

ここに、SNSの弊害があるのだ。

SNSは一部、勧善懲悪な一面がある。
投稿した記事において人間的ではない行為があるとすれば執拗に叩き、晒し上げ、炎上させる。
だから、利用者はそういう面をさらさないように配慮するか、そんな世界が許される場所に引き籠もる。「僕」は後者であろう。

今自分の世界では許されている行為、それが現実という「投稿」という行為がない世界に漏れ出せば、簡単に誹謗中傷の的となる。
それに他人を巻き込めるのか…と考える人であれば、完全な信頼に慣れていない場所に住み着く「僕」が、深い繋がりに至ることを拒否するのも分かるかもしれない。

「君は君であり僕である主観」を考えた場合も似たようなものである。「僕」が不完全な性格である可能性は落ちるにせよ、現実の自分と乖離した自分がいることを他人が受け入れてくれるのか、
その恐怖に耐えられず手を振り払うことになったのだろう。

「柔らかな手」「隣」、この言葉がより現実での人間という存在を強調してくる。「僕」が相容れない存在であることを明確化してくる。
こんなに寂しいことはないだろう。

SNSが生み出した、新たな「愛」

僕の価値に呑まれる意味は?
既に拭えない
「依存される」より豊かな愛

〈出典〉一気に最後まで引用された
深夜のお遊びで作った詩

ここで話は一気に変わる。

SNSの影響により他人を容易に信じられなくなった「僕」である「君」、しかしそんな「僕」に価値があるという。

先程の文章までではデメリットでしかなかったSNS上の自分に、呑まれるほどの価値がある…
あれ程のデメリットを受けてでもSNS止められない理由とは何なのだろうか。

それが「『依存される』より豊かな愛」である。

要はこれは、承認欲求の比喩であると私は思う。
SNSで自分の投稿を見てもらい、いい評価を受け、時には他人に自分の感動を広めてもらえる。
また自分の投稿を見て自分に興味を持ってくれる人、フォローをしてくれる人がいる。

そんな「愛」は他人から一切の信頼を得て愛されるよりも、「君」であり「僕」である存在には価値があるものなのだ。

SNSの普及により作られた新たな「愛」、信頼の形。それを享受することは炎上するリスクなんて些細なものに思えるほど豊かなのである。

沢山の他人に愛されたい、人気者になりたい。
投稿を他人に多く広めるだけで有名人になれるような世界は容易に手放せない。だから自分を愛してくれる一人を手放すという選択肢に至る。そんな虚しさを表した詩なんだ、と私は思う。

最後の文で態々「依存」という言葉を選んだのも、人に依存せずSNSに依存する現代の人間の浅はかさを皮肉ったものなのだろう。
実に恐ろしいものである。

まとめ

今回考察した詩は、「SNSの依存により人間関係を深めることが出来ない人間の虚しさ」を表しているようなもの、と私は纏めよう。
「君」と「僕」という容易な表現から始まり、その価値を一瞬で比較し最後の結末に至る…という手法は実にみご……

見事なわけねぇだろ。

完全にこのnoteの主人格を忘れ、ただの考察気取りおじさんになってましたが今復活。
そんな深夜テンションで勢いで作った謎詩を自画自賛するなんてこと私には出来ない。
厚顔無恥にも程がある。

ということで思ったより長くなってしまったが(気づいたら朝の5時になっていた)、これで私のキチゲ発散用適当発言noteを締め括ろうと思う。

最後までこのnoteを楽しんでくれた人には謹んでお礼申し上げる。こんな駄文でも面白がってくれたことに非常に感謝である。

またいつか書きたいなぁというときにぶち込むかもしれないがその時は宜しくだ。

ではまた。

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