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2章 経営社会学とは?その考え方

1節 (社会への)開かれを誘う学問

会社はホーム?

「会社は利益を創出する箱である」、これは会社である以上、至上命題です。
一方で社会における機能に着目すると、コミュニティ/reskillingの場にもなっているし、地域がなくなった(*参考)今、人々に勇気や生きる力をもたらす、出会いや機会を与える機能も持っている(担っている)、もしくは持っていました。
過去形にしたのは、その前提が以前と違うぶん、実態も変わって生きているからです。
これまでは人口増加(日本のGDP成長はただの人口増加によるものだった)による明るい未来に対し、年功序列型(人生すごろく)が機能していましたが、今は円安、人口減の中でかつての「いるだけでOK(ただし遅刻地なければ)」はもはや成り立たず、また価値観の多様化、再帰性、つまり「会社に帰属、ロイヤリティを持つことも、もたないことも選択」することが可能になりました。コミュニティは帰属意識を持つ個人によってさらに共同体感覚が強化されますが、その選択が個人に依存する中で、様相が変わっております。
データで言うと、ギャラップ社によるもので、「仕事に熱意を感じている」日本人は5%と世界の平均(20%程度)に比べだいぶ低い。
*参考:ニッセイ基礎研究所 総合政策研究部  主任研究員   小原 一隆氏による

結論、会社はかつての「ホーム」の機能をとうに失い、「バトルフィールド」(ホームに対しての外)になっていると言えます。

かつて
家庭:ホーム
会社・職場:ホームに近い
社会・取引先:バトルフィールド


家庭:ホーム?(未婚・晩婚)
会社・職場:バトルフィールド
社会・取引先:バトルフィールド

ゆえに、家庭がホームでないと(もしくは心理的安全性の高い会社を探すか、起業するか)どこでも息つけない構造になってしまいます。
ここで、

会社 < それをつつむプラットフォームの存在

会社(員)として、会社の(中での)生存を考えること、これ自体非常に結構なことですが、当然会社の外にそれを包む「社会」があります。
その社会というプラットフォームの上で戦うことが重要なのですが、そのプラットフォーム自体(社会や環境)をケアしない、より悪いケースでは搾取する形で、企業の存命を図るのは本末転倒になります。最近の例でも、ビッグモーターやダイハツなど、枚挙にいとまがございません。会社内が世界(の中心)に変わり、本当の社会や世界はどうなってもいい、と考えてしまう結果です。

では、どのように社会・世界(世界はここではglobalでなく、社会を包摂するものと捉えています、会社<社会<世界です)への眼差しを取り戻すのか、それはコンプライアンス以上に意義あることなのか、考えたいと思います。

社会・アーキテクチャがあって人に影響する

まず社会学の基礎的な構えを紹介します。
・社会・アーキテクチャが、人に影響する
・ゆえに個人の思想、行動は多分に、社会から影響を受けている
・ただし、だからと言って個人がその言動の責任から免れるわけでない
・また、そのアーキテクチャを作るのもまた人

1つずつ補足します。
普通人は、自分(個人)が自由に考え振る舞っていると考えています。それは結果的には(責任の所在という観点で)その通りなのですが、当然そこにある文化、制度に影響されています(無意識)。また困った時に初めて、自分の周りにある社会を意識します。
最近日本で起きている”自己救済系”についても詳しく他述しますが、無意識的にも、意識的にも、社会がその人に(程度の差こそあれ)影響する、というのが社会学の前提になる構えです。
このように考える私自身も、社会の影響の結果、社会について考えています。
ポイントになるのは、その社会を作るのも、また人であるというループです。初めに人有りなのか、社会ありきなのか、それを包む世界・環境ありきなのか、諸説ありますが、ここではループがあるということを覚えておきましょう。

続いて経営社会学の定義をしておきます。
”社会というプラットフォーム(アーキテクチャ)を理解し、会社自体や会社が生み出す影響をデザインするための学問”。
その文脈で、会社の役割を語ると、
・プラットフォームの維持のための活動
・プラットフォーム上での利益の最大化
・もしくは新しいプラットフォームの創造
となります。

なので、
・プラットフォームを成り立たせなくする行為:ルール無視、ズルなど
・プラットフォームを壊す行為:もとになっている要素(自然など)の破壊行為
は早急に手当てをしないと、
会社を包摂する社会(プラットフォーム)>個人が関わる会社>個人
この順番で自明性が崩れ、最終的に個人の自明性が崩れてしまいます。

勘違いを避けるべく、
・プラットフォームの維持のための活動
を補足します。これは既存の権力の維持を意味しません。当たり前ですが、プラットフォーム上でパイを奪い合うのは普通で、既存の権力層は必死で今のポジション(優位性)を保とうとします。その努力がルールの内側であれば良いのですが、不正・ずるをしてまで優位であろうとすることが問題です。
そのような行為は愚かと言えます。これは倫理的でなく、「プラットフォームの自明性を崩したら、結局自分もその上にいるので、自分の足元も崩壊してしまう」という文脈でも愚かということです。

では、なぜそう振る舞うか?これはひとえに役員・雇われ社長の任期が平均4年と短く、「後は野となれ山となれ」になりやすい体制を保持しているから、が1つの仮説と言えます。長ければいいのかというと、腐敗が長く続く懸念もあるので、一概には言えませんが、一躍注目を浴びた『ヴィジョナリーカンパニー』では、社長の任期は平均10〜20年で、それ以前に誰を社長に任命するか(95%は叩き上げ)について数年(長い場合10年くらい)かけて吟味しています。

また、権力は一様に、自己権力の保存を志向してしまうのでしょうか?
かつて白洲次郎が、役得、ならぬ、役損を提示しました。ノブリスオブリージュと言ってもいいかもしれません。その考えが元々ヨーロッパにはありました。
そう、その振る舞いも、社会の賜物ですね。なので、社会学では、「立派な考えやルールを定めることはできる、ただそれを守ろうとする、それを重んじるかどうか」は社会に依存します。なので、権力を得て自分の保身のために使う人を創出する社会もあれば、他者のために喜んで貢献しようと考える人を創出する社会もあります。

2節 プラトン発スピノザ行きの欲望の哲学

アランドレコント・スパインヴァル

参考:https://courrier.jp/news/archives/242750/

フランスで人気のアランドレコント・スパインヴァル氏の哲学を紹介します。
彼は、最近企業に講演を依頼されることが多いと言います、それ自体を「哲学することが人間の営みの一部だから」と言います。

彼の主張を2つ紹介します。
1つに、 管理職の仕事は、[プラトン発スピノザ行]この列車に従業員を乗せること、と言っています。
ここで彼は、
プラトン:欲望とは欠乏、足りないものを欲望する
スピノザ:欲望とは愛、喜び、楽しむこと
つまり、「欠乏」のためにやむない仕事を、「喜び」に変えられるかと言っています。
しょうもない仕事を、いかに輝かせられるか、デザイナーとしてそれを設計することが管理職の仕事と言います。

普通、実績・能力が上がると管理職にあがります。例えばエンジニアさん。エンジニアとして優秀だったから管理職としても優秀だろうという理屈なのでしょう。ですが、エンジニアと管理職では仕事がまったく異なります

2つに、労働についての哲学です。
「そもそも労働には価値があるのでしょうか?例えば愛と比較してみましょう。「神があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と書かれているのです。愛には道徳的な価値があります。労働にそんな価値はありません。
「仕事をするから人間は尊厳を持てる」と考える人もいるようですが、そういう人は、尊厳についても、人間についても何もわかっていません。本来必要だから働くわけです。」
このように彼は、仕事による自己実現の真意を看破します。日本の中で、特に「意識が高いような」環境で育つほど(要は真面目で優秀なほど)このトラップに引っかかってしまっているように感じられます。

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