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第2話 海を渡った血縁のない家族

 本斗尋常高等小学校卒業後、私は養家を離れ、樺太の中心地である豊原にある樺太庁立豊原医院へ入所し、看護婦の資格を取得した。私は特に看護婦になりたかったわけではない。当時は女性が家業以外に就く職業として代表的なものが看護婦や産婆だったのである。「これからは女も働く時代が来る」そう言う母の勧めで看護婦の学校へ通ったが、資格を取った者すべてがその道へ進むわけではなく、私も南名好へ戻り、家業である希望館の帳場などの手伝いをした。ただ看護学校時代の友人関係には大変恵まれ、その後も長く交際が続いた。


後列中央が松田リョウ

 私が18歳になる頃、日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まったという知らせが樺太にも届いた。内地でも空襲に見舞われ、戦況は日に日に悪化していったという。岩手のお寺にいる祖父が気がかりではあったが、樺太は日本ではあるが北海道のまた海の向こうの島である。樺太に暮らす私たちには戦争は遠い国のもののように思えるくらい、平和な日々が続いていた。
 
 先に紹介したとおり、私の養家である「希望館」は旅のお宿としてのみならず、下宿や宴会場としての機能も果たしていた。希望館に下宿している若い男性に、警察官がいた。彼こそが後の私の夫となる松井松作である。この精悍な若者に、私の養母である「なか」さんは「松井君がうちの婿だったら良いのにねえ」と、私を養女に欲しいと言い出した時と同じ調子で言った。それが挨拶代わりのように幾度か続いたので、私も否が応でも彼を意識してしまうようになった。聞くと、松井君は北陸富山県の農家の四男で、生家の畑は長男が継いでいた。元来正義感の強かった彼は、樺太庁警察部の求人を見て、富山でくすぶっているより可能性の拡がる開拓地での警察官としての仕事に夢を持ち、単身渡樺したとのこと。「私には、もう継ぐものなどないのです」そう言って、養母のつぶやきのような縁談をアッサリと受け入れたのだ。
 1943年(昭和18年)、私たちは入籍し、彼は「松田松作」となった。この人はどれだけ「松」の因縁から逃れられないのだ、と腹の中で笑ってしまった。私はこの家の養女であって、その養女に婿入りという、血縁関係のない者同士の繋がりがまた広がった。だが、不思議と私たち家族は気が合ったのである。皆、この地に流れ着いた流浪の民という仲間意識が、知らず知らずのうちにあったようにも思う。血縁に依ることなく当人たちの自由意思により結び付いた家族というのは、案外強いものなのかもしれない。
それから程なくして二人の間に新しい命を授かり、翌年5月20日長男・暉(あきら)が誕生した。希望館に集う皆にも祝福され、今思えばこの頃が最も、一点の曇りもなく穏やかな時間だったと思う。



松田松作、リョウ 
樺太地図

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