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アンナ・カレーニナの原則

 裏表がない人って素敵ですよね。本音と建前が乖離している人を見ると私は疲れてしまいます。二進法と十進法の計算を同時にこなしているような気分になります。

器用と不器用の葛藤

 裏表がある人っていうのは換言すれば器用な人なんだと思います。戦略的に自らの振るう言葉を変えることができるのですから。
 ただ、不器用な人でもあります。結局本音を隠しきることができないのですから。
 本当の意味で一番器用な人は裏表がないように見えて本音と建前を使い分けている人なのではないでしょうか。(もし本当にいるのなら)

処世術としての素直さ


 YESマンって映画がありますよね。すべてを肯定することが処世術になる場合もあるのです。
 裏表を作らない、素直な人になることももしかしたら処世術の一つなのかもしれません。その意味では不器用に見えて器用なのかもしれません。

 ただ、嘘をつかない、裏表がないからと言ってすべてが許されるわけではありません。素直が絶対の価値観になれば人をいじめることも正当化されてしまうかもしれません。究極的には正直という正論を盾に殺人が認可されてしまうかもしれません。

 素直だったらそれだけでいいわけではありませんし、張りぼてのように取り繕い続けることも有益とは言えません。
 人が二足歩行することができるのと同様に、世の中、絶妙なバランスで成り立っているんです。

アンナ・カレーニナの原則

「トルストイは小説「アンナ・カレーニナ」の冒頭で、幸福な家庭はみんな同じようなものだが、不幸な家庭はひとつひとつ成り立ちが違うという趣旨のことを述べているが、女性の顔の美醜についても同じようなことが言えそうだ。

村上春樹「一人称単数」より

 アンナ・カレーニナの原則とは、ある文脈における成功には原則があり、それらをすべて満たすことができなければ成功することはできないということを意味する。と私は解釈しています。
 例えば、新鮮な苺と濃厚な生クリームを使って作った俗にいう美味しい、極めて美味しいケーキがあるとします。しかし、ぺちゃんこにつぶれて、いたら他の要素が評価されていたとしても、一流とは認められません。
 ほかの要素が完璧だとしても、ある一つの原則が崩れてしまえば転落してしまうんです。
 スタンフォード大学卒業の一流スポーツ選手。収入の大半は貧しい人に捧げることを厭わない容姿端麗、才色兼備の優しい心を持つ完璧人間。
 唯一の欠点は殺人の前科持ち。
 こんなイメージです。

素直の大原則

 素直さが成功を収めるためにもこのように、アンナ・カレーニナの原則があるのだと私は思います。

ケーススタディ

私さばさばしているから言っちゃうんだけど、真由美ちゃんって洋服のセンスがないって思うんだよね。恥ずかしくないのかなって思っちゃう。

 架空の事例なのですが、確かに「私」は素直なんでしょう。ここで私が問題だと思うのは以下の二点です。
①真由美さんを陥れていること
②素直さを正当化していること

不当な攻撃

 ①についてはわかりやすいと思うのですが、背景はともかく、この文脈において「私」は不当に真由美さんを陥れていますよね。
 思ってしまうことは事実として仕方のないことです。ただ、あまりに視野が狭すぎます。褒めるor貶すの二者択一では決してないのです。
 意思の表明をしないという意味での黙秘を選択することができますし、或いは意見を求められた場合に否定するにせよ、オブラートに伝えることだってできます。選択肢が多くあることに気づくことが大切なのではないでしょうか。

 

都合の良い不文律

 ②については少々わかりづらいかもしれません。言い換えれば、責任放棄です。
 「さばさばしている人は何を言ってもいい」こんな不文律がいつの間に成立したのでしょうか。或いは成立していないのだとしたら「さばさばしているから言う」という論理はハナから破綻しています。
 不文律、暗黙の了解。聞こえはいいですね。ただ、正当性が認められていないなら意思疎通が図れているとは到底言えないでしょう。ただの思考の放棄です。

引き算の成功法則

 成功の大原則を見つけることは骨が折れます。すべての条件を列挙することは不可能に近いでしょう。揚げ足取りに殺されます。
 ただ、事例ごとに思索をめぐらし、それに対する自分自身の反応を客観的に分析し、そこから負の要素を抽出し、引き算で成功法則を導き出していくことは可能なのではないでしょうか。

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