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フェミニズムについて、まだ分かっていないけれど

「フェミニスト」という言葉が指し示す範囲や定義などを、僕は正確に理解できていません。その結果、なんとなくのイメージとして村上春樹「海辺のカフカ」に出てくるフェミニスト(図書館を訪問する女性たち)と似たような思考・指向性の方々をどこかで想像してしまいます。

最近、上野千鶴子「女の子はどう生きるかー教えて、上野先生!」(岩波ジュニア新書(2021))を読みました。2人の娘が成長していく過程で、「女の子」であることに対する社会的な違和感を感じたとき、僕がどういう考え方を提示すればよいのか、それを考えておきたかったので読んだ本です。

この本のなかで、「Q42 フェミニストってどんな人?」という質問に対して、上野千鶴子は


「フェミニズムの基本のきは、女らしさ/男らしさに縛られたくない、自由に生きたい、ってこと。そう思う人はみんなフェミニストだと思っていい」                                                                                                             (P177)
「フェミニズムは弱者が強者になりたい思想じゃない、弱者が弱者のまま尊重されることを求める思想だ、と私は言ってきました」
                                                                                                       (P178)


と答えています。この考え方がフェミニスト/フェミニズムであるのならば、いつか僕自身もその末席に座れるようになりたいなと考えています(今はまだ、自分のなかの様々な偏見がクリアーになっていません。「フェミニストではないんですが」という決まり文句を僕自身はまだ脱ぎ去ることは到底できない状況です)。

長女(小5)が生きている世界というのは結構過酷です。
本人の話を聞いていると、

・小学校の児童数が少ない(学年2クラス)
・そのうえ、女子が少ない(全体の1/3程度)
・同調圧力がとても強い/価値観がとても平坦で単一的

という特徴点があり、少しでも規定の価値観からずれていると「何となくクラスメイトから距離を置かれる」状況になるようです。鴻上尚史が人生相談で帰国子女の子供の悩みに答えているものがありますが、多かれ少なかれ、長女もこの様な日本の縮図に対面しているのだと思います。

そのときに、僕が言えることとは、やはり「個人は個人であり、自由でいい」ということと「個人(主体)とパターン(構造)は違うんだよ」ということなのではないかと考えています。いかに、小さいころから他人について偏見を持たないようにできるかが、大切なのだろうと思います。

僕自身が偏見が強い人間でもあり、特にパターン(構造)で当てはめて物事を考える癖があり、そこは僕自身が子育てを通じて矯正していくポイントなのだろうと思います。その先には、「女だから」「男だから」というような考えが溶けてなくなった、上野千鶴子のいう「フェミニズム」があるのでしょう。

ところで、父は母に運転免許は取らないで欲しいと伝えていたそうです。母から聞いた話では、母が仮に免許を取り、運転をするとなったら「心配で仕事も手につかないから勘弁してくれ」と父が言ったそうです(母は少しおっちょこちょいのところがあるのは事実ですが)。

この話を聞き、どう判断するのか。僕はこの話を10年以上も前に聞いたのですが、その時は「母は父にとても愛されている、もしくは心配されている」という印象でした。

一方で、今改めて考え直せば、父の母への愛情を理解しつつも、それがベースにあるうえで「パターナリズムによる過干渉」「母の行動や自立の可能性を奪った」「自分が納得したいエゴイスティックな感情」という要素も見え隠れすると思います。

ものの見方は難しく、また時代背景(父と母の日本の時代背景、父と母、それぞれの来歴や家族構成など)も大きく影響するため、単純な判断や白黒は一旦留保して考えることが大切になると考えさせられる事例です。


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