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あなたがしあわせで ありますように。



   遠い昔に通い慣れていたであろう道を歩く。
何ひとつ楽しい思い出を覚えてはいないのに、押し寄せる郷愁。
あなたにも、そんな場所はあるだろうか。
少年時代、暑い夏の日に駆けた森の道。少女時代、他愛ない話をした夕暮れの街。

   「あの時、こうしてれば良かった。」
そんな声が聞こえる。いつも誰かの、心のどこかに棲む後悔が、懺悔にも似た悲鳴を上げる。


   わたしは、言葉が嫌いだ。
その瞬間に感情のままに紡がれただけの、手の中に残らない声。
そんなものを人は後生大事にするのだ。
愛も、恋も、憧れも、敬愛も。嫌も、嘘も、嫉妬も、憎しみも。
それがどれだけ自分を苦しめようと、救おうと、何ひとつ形には残らない。
だから、目に見えぬ〝言葉〟という不確かなものを、信じようとする。裏切ろうとする。
いつかそれに殺されようとも、生かされたことがあるから、大切に抱き締め続ける。
わたしは、言葉が嫌いだ。


    慣れていたはずの道を歩く脚は、軽い。
いまさら、郷愁を覚えたあの頃に戻れるわけがない。そんな方法など知り得るはずもない。
それなのに、わたしの脚はまるできっと、あの頃と同じように懐かしさの根本へと進む。
もう、あの頃と同じ人はいない。誰ひとり、此処には、いない。
色んなものを失くして、壊して、何度も何度も作り直して。
それが正しいかも解らないまま、何処へ行くと言うのだろう。何処へ行けると言うのだろう。
もう一度やり直す術すら、わたしたちには残っていないのに。


   わたしは、言葉が好きだ。
形もなく、温度もなく、重さもない、目を離したら消えてしまう、脆くて儚い声。
それでも、わたしを掬いあげてくれた言葉は、未だ心の片隅で息をしている。
愛も、恋も、憧れも、敬愛も。嫌も、嘘も、嫉妬も、憎しみも。
生まれてしまった感情を、押し止めることも消すことも、何ひとつ意味を成さない。
ただ、選ぶことはいつだって、誰にだって許されている。
白か、黒か。肯定か、否定か。生かすか、殺すか。
その選択肢に必要なのは、いつだって自分の言葉だった。
不毛な愛も、付き纏う未練も、花束のような優しさも、生きることへの恐怖も。
言葉に出来ないほど重たくて、冷たいそれらの感情を形作れるのは、いつだって言葉という不確かなもの。それだけ。
わたしは、言葉が好きだ。


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   「ずっと、ともだちでいてね。」
そんな言葉を言いたかったのかもしれない。
幼い頃のわたしは、その言葉がどれだけ意味を成さないか、どれだけ強く人を縛るか、良くわかっていた。
使い方を間違えたなら、言葉はいとも簡単に〝呪い〟となって、心を蝕む。
だから、言えなかった。言うわけにはいかなかった。
郷愁はいつだって、わたしの心を傷付ける。
深い深い、抉られた傷痕を開いて、流れもしない一筋の朱(あか)。
本当は、あの時、この場所で。思い切り泣き叫びたかったのかもしれない。


   言葉はパズルのピースのように浮かび上がる。
浮遊するそれらを捕まえては繋ぎ合わせて、形にしていく。
わたしが言葉を遺すのは、後悔しているからでも、後悔を覚えておきたいからでもない。
忘れることは、殺すことだからだ。
言葉にならない感情も、言葉にした劣情も、忘れたくなかった、殺してしまいたくなかった。
そしてもしも、同じ感情を、同じ感覚を持つ誰かが、わたしの言葉を読んでくれたら、見つけてくれたら、わたしの言葉は生かされてゆく。
忘れられた言葉は、酷く無惨で、淋しくて、可哀想だ。


   夢があった。好きな人もいた。友達も、家族も、大好きだっただろう。
もう二度と思い出せないから、推測で補う遠い記憶。
覚えていない癖に、思い出せない癖に、郷愁はわたしの瞳を溶かす。
人は忘れていくものだ。忘れることで救われる傷もある。
けれど、大切な感情だけは、記憶だけは、忘れたら二度と取りに戻れない。
愛も、恋も、憧れも、敬愛も。嫌も、嘘も、嫉妬も、憎しみも。
その時、その場所、その人に、芽生えた感情や劣情さえも、二度と戻らない。
だからわたしは、忘れることを止めた。


    白か黒か、どちらかを選ばせる人がいる。
それは〝そうでなくてはならない〟という、一種の強迫観念だろうか。
好きか、嫌いか。許すか、許さないか。
多くの選択肢に溢れた世界で、二択を選び続ける人。その生き方も決して嫌いではない。

   白でも黒でもなく、灰色を選び続ける人がいる。
白と黒が混ざり合わなければ灰色にはならないのに、混ざり合わせることもなく灰色を選ぶ人。
本当はどちらかなんて、もうわかり切っている。もう答えは出ているのに、何度も灰色を選ぶ。
きっとそれは、答えではないはずなのに。
諦めてしまう、手放してしまう。そうして、勝手に色を重ねられて、自分の色が分からなくなる。
それはとても、淋しくて、哀しかった。
だからだろうか。
灰色の答えだけは、わたしの心に響くことはなかった。


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   この場所から離れる時、今という〝現実〟に戻る時。
必ず、呼び止める人がいる気がした。
声をかけるでも、肩を叩くでも、袖を引くでもなく、呼び止める人。
あの時、この場所に置いていかれた、あの頃のわたしだろうか。それとも。


   いつか、此処もなくなるだろう。
通い慣れていたはずの道も、家も、学校も。
その時までに、迎えに来れるだろうか。
成長し続ける自分の体と、重ねる年月。見合わぬ精神も。
この郷愁を覚えた場所だけは、忘れずにいられるだろうか。
あなたのことも、わたしのことも。
この場所は、忘れずにいてくれるだろうか。


    雨が降る夜の色。陽光射す街。煙る煙草に、あなたの指先。
撫でた髪の柔らかさ。抱き締めた背中。繋いだ指先に、濡れる瞳。
それら全て、抱き締め続けていられるだろうか。想い続けることが、できるだろうか。

「あなたはずっと変わらない、変われないよ。」
そう微笑んでくれたあなたの、願いの先にいられるだろうか。


    あなたにも、あるだろうか。
少年時代、暑い夏の日に駆けた森の道。少女時代、他愛ない話をした夕暮れの街。
あなたにも、あるといい。
それがどれだけ、あなたを傷付けたとしても。
その傷口を癒す誰かが現れた時に、その傷口に触れてくれる誰かを見つけた時に。
なにかひとつでも、〝郷愁〟という形のない、不確かな感情があなたを護ってくれますように。


あなたが、しあわせでありますように。




2019 最後の夜に。          さしろ




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