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資本主義が成熟した先に待つもの

Furusato-huisプロジェクトに関わるお二人と話すことができた。

日本は既得権益構造を覆せないお国柄だが、ガラガラポンが当たり前なオランダ。
大きい政府と小さい政府、行ったり来たりを繰り返す。昨日当たり前だったことが当たり前ではないことが当たり前。

各国からお手本にされた福祉国家オランダは過去の話で、2000年代からは自由化が進む。昨今の住宅不足の問題の根っこはここにある。来年からセカンドハウスへの課税が重くなるため、資産運用のために保有されていた不動産が一気に市場に放出されている。住宅不足解消にはいいようにも思われるが、富裕層が一気に買い占めに動いている状況。ますます貧困層には人間的生活をするためにエッセンシャルな「家に住めない」という問題が深刻化するのではないか。

1950年代はソーシャルハウジングを推進している時代があった。財団をベースに資金繰りし、残りの負担を住民で分担する仕組みがあったという。今もその名残はあるが、自治体までもが税収で競い合う今ではその文化は失われつつある。

ただ、民間では不満が溜まっている。行き過ぎた資本主義に警鐘を鳴らしている地域もある。若者の間でもシェアハウスを創設する運動も立ち上がっている。
行き過ぎた自由化からの揺り戻しが再び起ころうとしているのかもしれない。

所有を手放し、「コモンズ」という発想で、インフラの基礎中の基礎である「住」を捉えられないのか。
共同所有となると、お互いどのような権利主張をするか、や、お互いどのような管理義務を負うか、というような発想が生まれて、億劫に感じる人もいるかもしれない。

ただだからこそFurusato-huisは、文化や国籍、世代の壁を超えて、人々の心の「ふるさと」になるというコンセプトが大事なのだ。
茶道や着物、和食など日本の華やかな文化の底流にある、包含性、寛容性。そう、私たちはクリスマスも正月もハロウィンも祝ってしまう民族だ。
これからのコミュニティづくりを考えたとき、「ここが自分の居場所だったのだ」と思えるような空間・場づくりがそこで大事になってくるに違いない。受け入れられる喜び、自己受容、そして、所属意識、貢献意欲、行動、進化、イノベーション。この循環がこれからの経済の形ではないか。

日本でそれを本気で形にしている人たちの活動を見てきた。それがこのオランダという地域で実現できるのか、今から考えてもワクワクすることだ。

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