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dearお文さん【久坂玄瑞③】

 謹慎を解かれた久坂が、京都から萩にいるお文さんに送った手紙です。

 自由の身になってほっとしたのか、今回の手紙は(も?)ほとんど和歌について話しています。

 和歌は、久坂の特技の1つ。

 松下村塾に入る前から和歌が得意で、女性から好かれる要因の1つだったようです。(平安時代みたい)

 さらに塾生によると久坂は美声の持ち主だったらしいので、和歌を詠む姿は映えたでしょう。

 そんな久坂から、お文さんへ。

お文さん宛
(文久2年閏8月16日)

近来は歌もおんつくりなされ不申候や。
随分ひまもあれば歌などおんつくりなさるべく候。

(句読点はこちらで付けています)

「最近は歌つくってないの?
暇があれば歌をつくってみたらと思います。」

 前回の手紙で、お文さんから3首受け取ったと書いていたけど、物足りなかったのでしょうか。

此春、安藤一家にて召捕へられ候兒島強助と申
宇都宮の人の一家内和歌をよくよみ候事は、
いかにもうらやましき事になん此人は町人のよし
承り参らせ候間親類などへも御覧に
おんいれなさるべく候。
何も何も先日梅兄よりおんききと相考へ
あらあら申遣候。
かへすかへすも御用心なさるべく
朗々めてたくかしこ

「この春、安藤の件で捕えられた兒島強助という宇都宮の人の家族は和歌をよんでいたそうです。

 羨ましいことに、この人は町人だけど親類にも見せていたそうだよ。

 先日梅兄からきいていると思って簡潔に書きました。
 くれぐれも体に用心して。」


「安藤の件」=坂下門外の変。
(水戸の浪士が老中安藤信正を襲撃した事件)

 長州藩の藩論が長井雅楽に染まってしまうまでは、水戸藩としては坂下門外の変に長州藩士にも参加してもらうつもりだったようです。

 それで久坂は安藤の件を気にかけているのかもしれません。

「兒島強助(こじま きょうすけ)」
坂下門外の変に協力していた者の1人。
安藤襲撃を実行した張本人ではないものの関与の疑いがかかり、久坂が手紙を書く3ヶ月ほど前に獄死しています。

「梅兄よりおんききと相考へ」
梅兄は今まで同じく杉梅太郎(松陰先生の兄)のことだと思いますが、その梅兄に何を伝えていたのかは分かりませんでした。

手紙に書くほどではないということは、いつ通り「僕は元気です」という報告のことだと勝手に解釈。

歌は心の思ふ事はすぐに申すものなれば、
いかほどよくできてもこころがつまらずでは
なんのやくにもならぬものなり。
心がたしかにあるによりて歌もよむ人を
なかするほどにこそあるものにて候。
涙襟集などがそのところにて候。

↑ひらがなばかりで読みづらかったらすみません。久坂は相手がお文さんだからか、平仮名を多用しています。
古文書1年生の私にはありがたい。

「歌は心の思うところをすぐに言う(表す?)ものなので、どれほどよくできても心がつまらなければ何の役にも立たない。

 心が入ってこそ歌もよむ人を泣かすほどのものになる。
 『涙襟集』なんかがそうだね!」

「涙襟集」
久坂の手紙①にも出てきた、赤穂浪士(小野寺十内)の和歌。
久坂はよほど涙襟集を気に入っていたようですね。

多用中あらましの文仰すいもじ可被下候。

(手紙の最後の一文)

「多用なので簡単な文になってごめんね。」

↑言い訳はしているものの、久坂の気遣いを感じます。
「簡単な文でごめんね」・・・激動の時代を生きながら、細かなところ(お文さんの久坂を心配する気持ち)まで本当に考えているなと思いました。

あとがき

京都の情勢でもなく、長州藩内の政治でもなく、和歌について熱く語る久坂を初めて見たような気がします。
久坂が和歌を趣味としていたのは知っていましたが、和歌をもらうことに対してもこんなに心嬉しく感じていたのだとは知りませんでした。
時代が違えば、久坂がただ無邪気に和歌を楽しむ未来もあったのかな〜なんて。


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