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dearお文さん【久坂玄瑞②】

 今回の手紙、久坂はどこからお文さんに送っているのかというと、なんと京都の謹慎先です。

 謹慎の原因となったのは『航海遠略策こうかいえんりゃくさく』です。

『航海遠略策』に騒ぐ塾生たち

『航海遠略策』とは
小攘夷や破約攘夷ではなく、積極的に世界に通商航海して国力を養成し、その上で異国と対抗していこうという考え方。

 いわゆる大攘夷ですね。
 そしてそれは幕府に恭順を示すということでもあります。

 この考え方は長井雅楽ながいうたという藩内でも秀才として知られた家臣が作ったもので、藩主・毛利敬親や長井と対立していた周布政之助も感心して藩論とすることを認めたそうです。

(ちなみに毛利家と同じく長井家も祖先は大江広元と言われています)

 そしてこの策を幕府に提出することが決まりましたが、大反対したのが桂さんや高杉さん、久坂たちです。(松陰先生は既に亡くなっています。)

 航海遠略策が実は盗用であり、もともと松陰先生が考えたものだと主張を始めたのです。

確かに松陰先生もその考え方を持っていましたし(私は佐久間象山の影響も強いのではないかと思っている)、実際にアメリカに渡航しようとしていました。

 しかし松陰先生の考え方と同じで、何がいけないんでしょうか。

 むしろ聡明な久坂たちは、今は航海遠略策しか取る術がないということは分かっていたはずです。
 実際、その後明治政府も長井の策通りに動いていくのに・・・

予想としては、

「航海遠略策で幕府の力が増すのは
嫌だ!」

ということではないでしょうか。

 航海遠略策を幕府に提出することにより、敵対していたはずの幕府の力を強め、長州藩の主導権も幕府恭順派に渡るというになるのが気に入らなかったのでは。

 なので正直長井雅楽の案なら、何であっても反対した可能性もあると思います。

 その結果、久坂は長井雅楽暗殺を目論み、謹慎に追い込まれました。

 たぶん高杉さんも同じように考えていたんだろうけど、危険視した周布さんに「上海に行きたくないかい?」と上手に誘われ、上海に渡航中でした。

 周布さんとしては、リーダー格である高杉さんをとりあえず長州から離せば収まると考えていたのだと思います・・・

 ちなみに謹慎していた家屋は、現在「久坂玄瑞・吉田稔麿寓居跡」として京都に残っています。

 そうです、稔麿くんも一緒に謹慎でした😅

お文さん宛(文久2年8月13日)

六月十八日同廿三日七月四日之御文おいおいに披見いたしまづまづ御無事におんくらしなされ候よし悦参らせ候。

「6月18日と23日、7月4日の御文は追々に読ませていただき、ますますご無事に暮らしているようで喜ばしい。」

久坂の手紙には必ず、
「手紙を読ませていただきました」や
「僕は無事だよ」
といったような報告が入ります。

それよりも早く帰って来てくれ!
と現代に生きる私は思うけど、LINEも電話のない時代手紙だけでも嬉しかっただろうに、この一言があったら安心の度合が違いますね。

先日は歌三首御おくりなにより悦孟子候事に候。
此のちも何とぞおんおくりなさるべく候。
拙者も返歌なりともおくり度そんし参らせ候得供、此せつはまことに用事多く候故又々おくり可申候。

「先日は歌を3首送ってくれて喜びました。
 これからもどうぞ送ってください。
 僕も歌を返したいけど、最近は用事も多くなかなか送れません。」

 「用事が多い」って・・・謹慎中じゃないんですか?何をしているの?

 久坂が辰路たつじ(愛人)と付き合い始めたのはこの前後ではないかと言われていますが・・・どうなんだろう😱


あとがき
 長井雅楽は何度聞いても雅びやかなお名前だなあ・・・名前だけでなく、容姿も端麗だったそうです。

 周布さんが高杉さんを航海遠略策反対の主導者だと思ったように、高杉さん=藩反対派のリーダーと認識されるのはあるあるで、御楯組みたてぐみ結成のときも「御楯組血盟書」の書状には最初に高杉さんの名前が記載されていて、その後久坂、大和弥次郎、長嶺内蔵太、聞多・・・と続いています。
 でも実際に書状を書いたのはほぼ久坂で、高杉さんは名前を記入しただけでした。
 そこそこ長い書状だけど、名前以外全ての文章を久坂が書いたそうです。
 高杉さん達も血気にはやってはいたけど、1番やる気だったのは久坂だったのでは?

 そして久坂さん、お文さんに和歌をもらえたんだね!あんなに憧れていた赤穂浪士と同じことをしてもらってよかったね!と言いたいです。


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