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脱藩前の置き手紙【高杉晋作②】

 写真は茨城県笠間市の町並みです。

 古文書解読2回目。

 今回訳してみたのは「亡命誓書」と言われる、いわゆる高杉さんの置き手紙です。

 なんと3文のみ!
 短かかったため、なんとか全文訳すことができました。

⚠︎素人が訳しています。

置き手紙(文久2年閏8月27日)

全文

私儀心底は今日御前にて申上候通に御座候。
右に付余儀無亡命仕候。
一念も君主負けず候段、光霊鬼神誓い奉り候。
以上。

(句読点はこちらで付けています)


訳すの大変!


 今回難しかったのは、この置き手紙の中に漢文も含まれており(江戸時代の古文書は大体漢文を使っている)、その部分はさらに訳さなくてはいけなかったことです。

 私は普通(素人が独学でする場合)下の順序で訳しています。

古文書
🔻
釈文(くずし字を活字化したもの)
🔻
(できたら現代語訳)

 私が学びたいのは「古文書→釈文」の過程ですが、今回の「亡命誓書」には漢文が使われていたため、工程が2つ増えました。

漢文
🔻
訓読文(レ点や一・二点を付けた文)
🔻
書き下し文


 漢文に触れるのは高校以来だったこともあり、非常に時間がかかりました。調べながら何とか読める文にしたけれど、あまり自信がない・・・。

 なので今回は現代語訳を省きます。

要約すると「僕、脱藩します!」

 タイトルの通り、これは脱藩前に書いた置き手紙で「これから長州藩出ますねー」という事が書いてあります。律儀です。

 どこに置いていったのかというと、桜田門のすぐ近くにある江戸の長州藩屋敷です。

 この置き手紙で長州藩邸は大騒ぎだったそう(慣れてそうだけど・・・)。

【おまけ】脱藩した後

 高杉さんが脱藩した後どこに向かったのかというと、笠間藩(現在の茨城県笠間市)の加藤有隣先生のところです。

加藤有隣(ゆうりん)

笠間藩の儒学者。
おとなり水戸藩の学者、会沢正志斉(徳川慶喜の先生)、藤田東湖(徳川斉昭の側近)に学んだ。

このとき高杉さんと会うのはなんとまだ2回目。初めて会ったのは万延元年(1860)9月、高杉さんが遊学の旅の途中笠間藩に寄ったとき。
有隣は活力が湧いてくるようないい話ばかり聞かせてくれたそう。
(試撃行日誌より)

 どうして有隣のところに向かったかといえば、攘夷決行のため仲間を集める相談をしにいったとか。

 「攘夷しましょう!」と鼻息荒い高杉さんに対し、有隣は反対。

 「とりあえず今は帰藩しなさい」

 でも今帰っても罰せられるだけだし・・・と悩んでいるところ、桂さんから連絡がきます。

「僕が何とかしてあげるから、帰っておいで〜」

 相変わらず後輩を放っておけない桂さんは、高杉さんのために奔走。

 桂さんの活動のおかげか(絶対にそう)、脱藩は死罪とも言われる大罪にも関わらず、高杉さんはお咎めなしでした。

感想
 上海から帰国し、まだ焦りが続いている状態。上海渡航前の手紙を全て読んだわけではないけれど、やっぱり昔の方が気持ちが安定しているような・・・。
 あと最近は佐賀藩の本を読んでいたので、その後にこういう長州のエピソードを読むと、やっぱり長州藩は若者に大して甘いというか、寛大だな〜と感じる。
 江藤新平らが物凄い覚悟を持って脱藩したのに対し、長州人たちはぽんぽんと軽快に脱藩していくイメージがある。そしてちゃんと戻ってくる。笑






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