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神様に手を合わせるように音楽を聴く日、僕たちは歳を取る。

 もしわたしが死んだら、墓碑銘はこう刻んでほしい。
 
 彼にとって、神が存在することの証明は音楽ひとつで十分であった。

カート・ヴォネガット「国のない男」より抜粋。

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 先日、職場で早めの忘年会があった。
 とあるホテルの宴会場を貸し切っての立食パーティーだった。

 そこで僕は同じ部署の二十一歳の女の子を別部署の二十三歳の女の子と引き合わせた。
 別部署の子は、同期と仲がいいこともあって喋ったことがあった。

 二人の会話は和やかに進行し時折、話題が不足した際にだけ、僕が割って入り会話を繋げた。元々仲良くなれそうな二人だったこともあり、すぐに意気投合した。
 別部署の女の子が音楽活動をしていて、youtubeのアカウントで「歌ってみた」などを挙げている話になった際、「リクエストして良いですか?」と同じ部署の女の子が言った。

「ぜひぜひ! 私、オタクなので自分の好きな曲しか知らなくて。リクエストは大歓迎です!」
 と別部署の女の子が笑顔を見せた。

「●●さんの声で歌ってほしい曲があるんです!」
 それがLeinaの「うたたね」だった。

 僕は初めて聴く曲名だった。
 同じ部署の女の子は学生時代、楽しいことしかなかったです!と言ってしまう陽キャ、つまるところリア充なので、そんな子がリクエストする曲には興味が沸いた。

 その場で、スマホにメモをし帰りに聴いた。

 来世は貴方のギターになりたい
 密着しながら激しく揺れたい
 音に乗りながら貴方に揺らされながら
 
 今世は貴方の彼女になりたい
 (夢の中でいいから)
 ああ目覚めてしまったおはよう世界

Leina「うたたね」より

   良い曲だった。同時に言い方は難しいけれど、若い頃だからこそ好きになって夢中になるタイプの曲のように思えた。

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 僕が二十歳そこそこの頃、友人が失恋するたびに、カラオケに連れて行かれていた。
 そこで歌われるのは、BUMP OF CHICKENの「リリィ」やRADWIMPSの「五月の蠅」だった。

 失恋した彼らの気持ちや恋人(や片思いの相手)に伝えたかったけれど伝えられなかった言葉(や誓い)たちの断片が、カラオケではメロディに乗って叫ばれていた。
 まるで、自分の失恋が世界にとって大問題だと言わんばかりの必死さだった。

 大人になるとカラオケで失恋ソングを歌いたくなるほど、うかつに人を好きにならなくなる。
 丁度、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」の「僕」が十三歳の女の子ユキに以下のように言うシーンがある。

僕が十五歳だったら確実に君に恋をしていただろうね。でも僕は三十四だから、そんなに簡単に恋はしない。これ以上不幸になりたくない。

 おそらく、そこにあるのは誰かに恋をする時、自分の気持ちを相手に託してしまう感覚だ。託された側がちゃんとそれに応えてくれた時、恋は成就する。
 音楽にも少し似た部分がある。
 その音楽を心から好きになって共感すると、僕の中にあるものを少しだけ託してしまう気がする。

 三十二歳の僕は、この託すという感覚に躊躇がある。

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 弟とその親友が三十歳になった時、三人で学生時代に歌っていた曲縛りで、カラオケへ行こうと約束していた。
 僕が三十歳になった年、広島の実家に帰省した際にカラオケへ行った。
 まだ約束の時じゃないからと、好きに歌った。

 弟とその親友が三十歳になった年、コロナが蔓延していた。
 カラオケには行けなかった。

 弟の親友が最初に結婚した。
 次に弟が結婚した。
 弟の結婚式で、弟に「次のカラオケは長くなるよ!」と言われた。

 結婚式から数ヵ月が経過した先日、弟から岡山まで出てくるから、カラオケに行こうと誘ってきた。
 姫路から岡山を調べると、二通りの方法が出てきた。
 普通電車なら一時間半弱。
 新幹線なら二十分。
 思ったより気軽に行ける。

 恋人に岡山へ行ってくるよ、と言うと「どこ観光するの?」と尋ねてきた。
「岡山駅周辺のカラオケボックス」
 眉をひそめられた。

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 二十歳の年に成人式がある。
 けれど、三十歳の時には何かしらの「式」はない。

 弟とその親友とのカラオケはまるで三十歳でおこなう成人式のような一つの区切りを明確にする会だった。

 十代のあの頃、好きだった曲。
 二十代になって、好きになった曲。
 すべてに思い出が詰まっていて、僕たちの人生の横には常に音楽があって、そこに想いを託していたんだと実感できた。

 弟が言う。
「俺さ、結婚して家も買って、これから家族の為に働いて行って、楽しいこともいっぱいあると思うんだけど。俺個人の楽しさって、この先に何かあるのかな?」

 あるよ、と答えたけれど、具体的な言葉は浮かんでこなかった。僕はまだ結婚をしていないし、家を買ってもいない。
 今の僕に弟に言えることは少ない。

 カラオケが終盤に差し掛かった時、弟が「分かったよ、兄貴」と言った。
「なにが?」
「色々聴いていて思い出したんだけど俺、こんなお爺ちゃんになりたいってのがあったんだよね。そのお爺ちゃんになることが、俺の個人の楽しみなのかも知れない」

 面白い答えだね、と僕は思った。
 三十歳を超え、家族を持った後の個人の楽しみは家族を含むけれど、とても個人的な感情に起因するものだった。

「少なくともさ、ここにいる三人がどういうお爺ちゃんになっていくかを横目で見ながら、歳をとっていけるって。多分、それだけで結構楽しいことだよ」

 歳をとることは楽しい。とくに誰かと一緒にとっていくのが格別に楽しい。
 安直な結論だけれど、悪くない。

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