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【対談】人生を狂わす実写化映画の地図 2010-2020「2011年を語る」後編。

前回はコチラ

2011年のまとめとモラトリアム。

倉木

 色々と僕から語ったから、自分でもよくわからんようになってきた。

 GANTZ
 GANTZPA
 岳
 ワイルド7
 カイジ2

 語った作品を羅列したけど、どうせならば、毎年のラストに紹介した映画のタイトルを書くべきなのかとか思ってきた。

 それはそれとして、個人的に、面白いのは岳になると思う。でも、反面教師として作品づくりにいかせるのは、GANTZになるかな。

 振り返って重要な作品を考えると、郷倉くんが語ってくれたスマグラーやモテキも候補にいれたならば、だ。

 どの作品にも、どうしても欠点があるように感じる。そんな中で、モテキは欠点を希望ととれそうだと気づかせてくれた。
 オリジナル展開だけで映画つくったのはズルいやん。でも、素晴らしい挑戦だった。
 原作ファンは漫画から飛び出した姿を興味本位でみたがるものやのに、それをドラマシリーズでやり尽くしたのかもしれんけど、オリジナルで邦画として戦える作品に仕上げてくれたのは素晴らしい。

 漫画通りなら、楽な部分もあるのではないでしょうか。それでこけても、原作通りですからと責任転嫁できるしね。
 オリジナルにしたならば、原作をこえた面白さを用意する必要があるという茨道。
 モテキをとおして気づいたこと。
 もしかしたら、漫画原作の実写映画が勝負すべき相手は、一番の仲間でありリスペクトすべき存在の原作漫画そのものなのかもしれない。

 リリー・フランキーが出てなきゃ、確実に視聴し直すと約束するのやけどなw

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郷倉

 まとめて頂いている状態なので、このまま2011年のまとめを行ってみたいと思います。

 ちなみに、前回質問をしていて、今回していないことがありました。
 2011年は僕は二十歳になって昔エッセイでも書いた、倉木さんとも友人であるYくんや鏡くんと一緒に飲み歩いていました。

 また、3.11が起こった時は部屋で寝ていて、起きて携帯を開くと地震のニュースがあり、映像は学校の教室で同期や後輩と共に見た記憶があります。

 3.11をちゃんと受け止めることができたとは言えず、自分のことばかりな時間を過ごしていました。
 倉木さんの思い出としては、地元に戻られて週に一回、僕の部屋に泊まって帰る、という日々を過ごしていたのは、この頃でしたっけ?

倉木

 週一で大阪になる前、それこそ3・11の前日が出版された本の〆切だったこともあり、〆切直後に酒飲んで気分よく寝てました。そして、目覚めたら日本が変わってたって感じやったなぁ。

 たしか、ドラマの脚本執筆もこの年で、秋には鏡くんの仕事を引き継いで十日間で文庫一冊書いたはず。
 充実してた分、執筆に関して一番色んな人に迷惑かけた年ともいえる。
 
 マジで楽しかった日々やな。
 いまとは、また違う楽しさやった。というか、改めて振り返ることが、いまのいままでなかったほどに、いまもがむしゃらなんやな。

郷倉

 人生の中でのモラトリアムっていつ?と訊かれたら、おそらく2011年と答える気がします。
 倉木さんがおっしゃる通り、あの時期は僕も凄く楽しい日々でした。

 倉木さんともう一人の友人が本を出した日、発売日に学校の近くに本屋へ走ったのを今でも覚えています。本屋で倉木さんや友人の知っている人の名前を見つけるって、特別な体験でした。

 もう人生の中では訪れない体験が、2011年付近には詰まっているような気がします。

 少々無理矢理、映画的な方に話を持って行きたいと思うんですが、青春時代を過ごしておくって、映画に限らず小説や漫画に見る上で、結構大事な気がするんです。

 GANTZの玄野計が地下鉄のホームで、人助けをしようとする旧友の加藤勝を見て、そして、助けを求めるような視線を向けられても、それに応えられないって、僕はなんか分かるんですよ。
 それこそ、幼少期は何も考えてなくて、調子に乗って色んなことができて、周りに「凄い」って言われて更に調子に乗る。
 けれど、ある時から、調子に乗れなくなる。

 それこそ、Creepy Nutsの「かつて天才だった俺たちへ」の歌詞にある「苦手だとか怖いとか 気付かなければ 俺だってボールと友達になれた」し「力が弱いとか 鈍臭いとか 知らなきゃ俺が地球を守ってた」んですよ。

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 青春時代って、この知らずにいたからこその万能感と、自分は天才じゃないと気づく挫折感が混ざり込むカオスな時期なんですよね。
 その挫折感みたいなものが強くある時期にGANTZの玄野計はいて、それ故に、俺が地球を守るみたいな振る舞いをする加藤勝に対し、苛立ってしまうんですよね。

 そういう体験したからこそ、理解できる部分って映画に限らず物語全般にはあると思うんですよ。

 前回は異世界転生ものを書く上での映画紹介をしてくださったんですが、今回は青春小説を書く上で、見ておくべき映画を教えていただけませんか?

「いまを生きる」原題「Dead Poets Society」=「死せる詩人の会」。

倉木

 前回の異世界うんぬんの時は、キャスト・アウェイをオススメしたくて話したようなものでした。キャスト・アウェイだけでは足りない話もあるので、ロード・オブ・ザ・リングマイ・インターンも、ついでに推した形です。今回も柱となる一本を推したあと、他の映画もオススメすべきか迷っています。
 正直、僕にとっては青春小説を書く上で、この一本があればいいのではないかというほどの作品があるので、二本目を推すより、ひとつを掘り下げたいという気持ちが強い。

 前口上が長くなりました。これからも、おそらく長いです。

 青春小説を書く上で見ておくべき映画。
 それは「いまを生きる」です。
 原題は「Dead Poets Society」=「死せる詩人の会」昔から、洋画の日本語タイトルには、うーんってなることが多いけど、これはセンスがある。劇中で発せられるラテン語の「Carpe Diem」の日本語訳らしい。

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 ちなみに僕は、タイトルよりも、”Oh Captain, My captain”と高らかに叫ぶシーンの映画として記憶しています。タイトルでピンとこなかった人でも、この”Oh Captain, My captain”というリンカーンに捧ぐホイットマンの詩で、ああ、あれかと思い出す人も一定数いるのではないかと思う。

 さて、以下は円盤のあらすじ。

 1959年バーモントの秋。名門校ウェルトン・アカデミーに1人の新任教師がやって来た。同校のOBでもあるというジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムズ)だ。伝統と規律に縛られた生活を送る生徒たちに、キーティングは型破りな授業を行う。「先入観にとらわれず自分の感性を信じ、自分自身の声を見つけろ」とキーティングは、若者たちに潜在する可能性を喚起する。風変わりな授業に最初はとまどっていた生徒たちも、次第に目を開かされ、キーティングへの関心は高まってゆく。中でも7人の生徒たちはキーティングの資料をもとに“死せる詩人の会"を結成し、深夜に寮を抜け出して洞窟に集まり、自らを自由に語り合うようになる。恋をする者、芝居に目覚める者…。皆がそれぞれの道を歩みはじめたかのようにみえた時、ある事件が起こった。そしてその事件をきっかけに、生徒たちは再び学校体制下に引き戻されそうになるのだが…。

 日本での公開は1990年なので、いまから30年以上前とは、おそれいった。古くさい映画だと視聴を避ける方もいそうやけど、考えてみて。劇中の舞台は1959年のアメリカ。つまり公開当時でも30年以上前の世界観で勝負してるんや。そして、1990年にアカデミー賞脚本賞を受賞した時点で、1959年でも1990年でも、青春の悩みは大きく変化していない証明ではないやろうか。そしてきっと2021年でも同様のはず。つまり、いまみても面白いに決まっている。

 あらすじだけみると、本作は型破りな教師と生徒のお話になるんかな。
 これも一つの王道パターンで、色々と名作があるよね。漫画原作で実写化されたのも多いジャンルかも。GTOごくせんぬーベードラゴン桜。きっと、他にもあるのでは?
 いまあげた作品の先生とキーティング先生の最大の違い。キーティング先生は、あくまでも授業の時間で、教育を通じて生徒たちの心を掴むところ。授業のシーンは、映画を観ている僕も授業を受けているような気分になる。リモート授業のはしりかもしれんなぁ。

 そんな、キーティングの担当は「」の授業。詩の良し悪しを理解させる授業とは、芸術の良し悪しを伝えること。ん? もしかしてこれって、いまやってるこの企画に通じるものもあるんちゃうか。いかに映画が面白いかを知ってもらうのにも似ているなぁ。

 話がそれた。学校の授業になっているのだから「詩」の授業にも教科書がある。
 教科書には、詩の良さを論理的に分析して計算するような方法が書かれている。いかにも頭のいい人が考えそうな序文のさわりは、こんな感じ。
詩を理解するには、我々はまず、韻律・リズム・修辞をまず把握することだ(中略)これをグラフに表し、縦軸と横軸に数値として代入し、うんたらかんたら
 キーティングは「くそくらえだ」と言って、生徒たちにページを破らせるという型破りな授業を行う。これは戦いだ、戦争だ。君らの心や魂の危機だ。詩の価値が計りで測定できてたまるかよ、と。

 とはいえ、これは詩の良し悪しを判断する心を養うことを通して、考えさせる力を身につけさせようという教育方針である。さらにいえば、言葉や理念で、世界を変えられるということを教えてくれているのだ。
 意味や目的があって型を破るのであれば、ついてくる生徒もいる。
 そして、教科書を破る行為以外にも、型破りな授業は続く。
 あるときは、生徒を机の上に立たせて、それだけで世界の見え方が変わるというのを教える。そういえば、最初の授業では、”Oh Captain, My captain” の詩を引用して、キーティングのことをキーティング先生でも、キャプテン(船長)と呼んでも構わないと言ったりもする。

 キーティングが、ある授業中に語った名言があるので、紹介したい。
我々が詩を読み書くのはかっこいいからではない。それは我々が人間であるという証なのだ。そして人間ってやつは情熱で満ちあふれている。医学・法律・経営・工学は生きるために大切で尊い仕事だ。しかし、詩・美しさ・ロマンス・愛情こそが我々の生きる理由。生きていく糧なのだ
 この、詩の部分を小説(あるいは文学)に変換すれば、物書きとして救われたような気持ちになる。
 この時点で、視聴している僕はキーティング先生を、いやキャプテンのことが好きになっていた。

 作中でも、幾人かの生徒たちがキャプテンの影響で変わっていく。それが顕著なのは、あらすじにも書かれている“死せる詩人の会"の結成だ。正確に説明すると、再結成。元々は、キャプテンが在学中に死せる詩人の会を結成していたので。
 死せる詩人の会のメンバーは、深夜に寮を抜け出して洞窟に集まり、わいわいと騒ぐ。いわば、思春期にちょっと悪いことや人とは違ったことを仲間と共に経験することで、それぞれが自分と向き合うキッカケとなるのだ。

 この自分でも知らなかった自分を把握していくのが、青春小説を書く人には観てもらいたい部分やね。
 青春真っ只中の少年のお手本的なものが、ばんばん登場する。尺の都合か群像劇のていのせいか、一部しか掘り下げられなかった。なので、映画を観ながら自分なら、どうやって掘り下げようかと考えるだけで短編ぐらいにはなるはず。
 そもそも青春小説を書きたいけど、描きたいシーンがあるだけの場合もある。あの子のパンチラを描きたいとか、大空で好きな子を救うシーンを描きたいとか。そういうシーンだけが先行して、テーマがおざなりになっては物語としてダメになる場合もある。

 なので、ここからは死せる詩人の会のメンバーの物語を簡単に説明する。
厳しい親のせいで、やりたいことを我慢し続けてきた少年が、演劇の夢を叶えるためオーディションを受けて主演に選ばれる。
優秀な兄と比べられて、自信をもてない少年が、自分でも知らなかった詩の才能を見いだされる。
偶然知り合った女性に一目惚れした少年が、相手に婚約者がいても、その婚約者に殴られても、惚れた相手に思いのたけを詩にして伝える。
もともと大人に反抗的だった少年は学校の伝統に不満があり、自分なりのやり方で反逆し、改革しようとする。
保守的な少年は、流されるまま参加した死せる詩人の会で、それなりに楽しんでいるが、なにかあれば大人に密告しそうな危うさを抱える。

 これらの物語をひとことにすると、こうなるか。
 夢、欠点(才能)、恋、挑戦(反逆)、現状維持。
 青春小説を描く際のキーワードがなんなのか、この映画の少年たちを見ているだけで理解できるはず。僕の言葉では足りないけど、映画を観ればわかるはずやから。

 さてさて、本作では青春の光と陰、両方をきちんと描いてくれている。
 映画も中盤をこえた頃、人によっては危うい歩き方ではあるが、それぞれが内なる自分の声に耳を澄まし、動き出してはいる。この段階ではゆっくりとした展開で、地味な物語という印象を受ける。
 青春の刹那的な儚さや綺麗さばかりが描かれているせいで、そう感じたのかも。
 そんな少年たちと関わる様々な立場の大人が登場することで、雲行きが怪しくなり、ある事件が起きてしまう。
 この事件が起きてからの展開は、青春ってのは綺麗事だけではないというのを描いてくれる。
 悲しい事件でした。少年は、大人とは違う時間の流れの中で、タイトルどおり「いまを生きる」のだから。同じ十年でも、少年と大人では、価値がまったく違う。この部分こそ、青春小説に必要不可欠な空気感ではないかと思う。

 さて。映画で起きる事件がなんなのかは、ぜひ自ら観て確認してもらいたい。

 その事件が作中よりも軽かったとしても、親は学校のキャプテンのせいにするのは変わらなかっただろう。そして、学校の対応も事件の大きさがどうあれ変わらないだろう。
 結局、キャプテンに責任を押し付けて学校はイメージを守ろうとするのだ。学校側にすべてを知られた死せる詩人の会のメンバーにも選択が迫られる。キャプテンは救えないが、自分の身の振り方で自分だけは救える。キャプテンのせいにすれば、自分の一生を棒にふることはない。選択肢と呼ぶにはあまりにもなものを、精神的に脅迫を受けながら選ばねばならない感じだった。

 学校を去ることになったキャプテンが、私物をとりに教室に入ると、後任の教師が詩の授業を行っている。
 型破りな授業のせいで、後任の教師は最初から授業を行うことにしたのだが、教科書の序文はキャプテンの授業で破られていた。
 荷物をまとめ、去ろうとするキャプテンに、一人の少年が叫ぶように謝る。これ以上、喋れば退学だと後任の教師に脅されるが、少年は机の上に立ち、”Oh Captain, My captain” と叫ぶ。
 少年に続くものもいるが、逆に顔を背けて椅子に座ったままのものもいる。それは、学校のルールに縛られた生徒たちが、自ら考えて生き方を選んでいるように見えた。
 事実、死せる詩人の会のメンバーと絡んでいなかった生徒の一人が、葛藤してどうするか選ぶシーンが最終盤の数秒で描かれている。
 主要キャラばかりに目がいっていたが、同じ教室で同じ授業を受けていた生徒に焦点を当てるのは、演出として粋すぎる。キャプテンの教育が成功している象徴だ。全員の生徒に、詩を通して物事を考える心が刻まれていた。しかも、この名前のわからぬ少年にとっては、これから「いまを生きる」のだろうから。

 ああ。ごめん。テンションがあがりすぎて、ものすごいネタバレをしてしまった。

 なんにせよ、青春小説の結末とは、いったいなんなのかが、ここでは見事に描かれている。
 バトル物ならば、ボスを倒す。スポーツ物ならば、勝敗が決する。そんなわかりやすいもののひとつとして、青春小説は「自由の責任をとること」が、結末だと思うのだ。
 子供が出来たので、結婚をする。悪いことをしたので、学校を辞める、警察に捕まる。これらも、自由の責任をとっているのにほかならない。

 この部分をなぁなぁにした場合、名作はうまれない。ずっと幸せでキラキラした青春があるならば、それは終わりになっていないだけではないか。うまく言葉が出てこなくて、歯がゆい。現実が見えなければ、責任をとることすらできない。そんな感じのことを言いたい。くそ、僕にキャプテンのような名言が出せればいいのに。

 さてさて。この映画の未成年の少年達は、自由にやってきた責任がとれなかった。だから、必然的に大人が犠牲になるしかなかった。
 ただし、犠牲になってくれた大人のために、主人公たちがなにもできない訳でもないのだと希望もみせてくれる。伏線を回収して感動を呼ぶ。その伏線とは、授業から学んだことを先生に返すと言いかえることもできるだろう。

 生徒たちと同年代の少年・少女が観れば、青春時代の「いまを生きる」ことに深く共感できる。さらにうまい作りなのは、青春時代が終わった大人たちでも、懐かしいなぁという感想だけで終わらないところだ。

 子供を持つ親や、青春時代の少年・少女と関わりを持つ大人が、様々な立場で登場する。そんな大人たちにも一石を投じている。自分の教育は、接し方は正しいのか。「いまを生きる」ものの邪魔になっていないか、と。
 視聴後、これはハッピーエンドだったのかと考えることがあるだろう。だが、考えてほしい。ハッピーだろうと、そうでなかろうと、青春が終わっても人生が続くのは紛れもない事実なのだから。

 もう、他の作品を推す元気がないなぁ。
 本作だけでも、引き延ばせば何本も長編になる要素がある。テーマがぎっしり。
 同じような展開でも、年齢を変えたり、登場人物の性別を変えたり、時代をいまに落とし込むだけでも、新しい作品になりそうですよ。
 まとまったかな?

ノワール作品としての映画「太陽」。

郷倉

 まとまっていると思います。
 というか、とんでもない作品を紹介してくださいましたね。僕は倉木さんの紹介で、すでに「いまを生きる」のキャプテンが大好きです。

 倉木さんから青春小説を書く際の映画紹介として、素晴しい一本を選んでいただけたので、僕はほとんどしなくて良いかな? とも思うんですが、せっかくなので何か書きます。
 
 青春って、というか映画(とくに上映されるもの)って、何か起きなければならない、という先入観があると思うんです。
 エンターテイメントでなければならない、という強迫観念みたいなものですかね。

 けど、実際のモラトリアム、青春時代を過ごしている人、過ごした人たち全員が、映画になるような体験ってしていないと思うんです。
 青春映画って、あるいは青春物語って、今この瞬間を過ごす君たちの為の物語だ、みたいな当事者性を押してくることってあるんですが、いやいや僕たちの日常に堀北真希や橋本環奈みたいな美少女はいないし、山﨑賢人や佐藤健みたいな王子様もいない。
 というか、いても話しかけられないし、仲良くなることだってない。

 現実を生きる僕たちの日常なんて、それくらい地味なものなんですよね。だから、ドラマティックで哲学的な思慮深い名作な青春映画を見る度に、現実との距離を感じて切なくなったりするんですよね。
 高校生くらいの僕って青春映画とか、同世代が頑張っている話ってあんまり惹かれなかったのを覚えています。何をどんなに頑張っても僕は家を出る以外に幸せになれる方法が思い浮かばなかったから。

 頑張れば報われるってことも、この世界では起るのだろう。
 けれど、それは僕とは別の世界だ。
 そんな捻くれた考えを抱えて高校生の僕は生きてました。

 そんな捻くれた過去の僕に勧めるなら、ノワール作品になるんだと思います。
 その定義にもっとも近かったのは、入江悠監督が「ビジランテ」に関するインタビューの際のものなので、引用させてください。

 僕が10代の頃、生きることの残酷さや、主人公が報われることのない現実を描いた作品に救われるものがあったんです。自分の苦しさを映画が引き受けてくれているような気がして。
 
 (中略)
 
 お客さんにどう受け取っていただけるかは分かりませんが、この映画が誰かの救いになれば嬉しいです。

 当時の僕は母や弟が呆れるくらいドラマの「白夜行」を見ていたんですよね。今思えば、僕は「白夜行」の主人公、桐原亮司に自分の苦しさを引き受けてもらおうとしていたんだと思うんです。
 そういう風に自分の辛いものを引き受けてくれる、って言う作品も青春映画の側面にはあります。

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 ということで勧める映画としては、入江悠監督の「太陽」です。あらすじを調べると、コロナウィルスが蔓延している今だからこそ、見るべき作品とも言えるかも知れません。

 21世紀初頭、ウイルスによる人口激減から、なんとか生き残った人類は、心身ともに進化しながらも太陽の光に弱くなり夜しか生きられなくなった新人類「ノスク」と、ノスクに管理されながら貧しく生きる旧人類「キュリオ」という2つの階層に分かれて生活していた。

 この、あらすじでどこに青春感があるのか、また、どのような参考になるのか。その辺は、ご自分で確認いただきたいと思いますが、一人の人間が達成しうる範囲なんて、結局はこんなもんなんだ、という絶望の後の清々しさを感じていただければ幸いです。

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倉木

 なんか、あらすじから見た記憶があるので、You Tubeで予告を確認してきました。
 予告の最後らへんで、道なき道を進むボロい車を見て、オチを思い出しました。
 鑑賞後、僕は北野映画のキッズ・リターンのラストの名言を思い出したかな。その名言とは、ご存知の方も多いでしょうが、以下の通り。

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俺たちもう終わっちゃったのかな?
バカ野郎まだはじまっちゃいねぇよ

 なるほどな。郷倉くんの言うところの「絶望のあとの清々しさ」という言語化は納得かもしれん。

 てか、いまさらですが、青春小説を描くならば、「キッズ・リターン」も観てほしいな。
 郷倉くんに、Vシネマ大好き認定をされた(?)倉木ですが、極道映画のアウトレイジよりも、キッズ・リターンのほうが北野映画で好きっす。

 そして「太陽」の話に戻りますが、本作はウィルスが蔓延したあとの世界の一つを描いた物語です。だからこそ、コロナのいまってことやね。
 作中に登場する新人類「ノスク」と、旧人類「キュリオ」の二つの階層。戦争に勝った側と負けた側に通じるものがあると、僕は鑑賞中に感じたような気がする。ちょい、記憶が曖昧やけど。
 いまの時事に当てはめるならば、コロナウィルスという戦争に勝った国と、負けた国。勝った国は、負けた国を植民地化している、と。

 まぁ、そこまで難しく考えなくても、都会と田舎の話として語れそうな物語やったよな。
 個人的に、その田舎っぽさが、本当の田舎をバカにした感じがあって、ちょい苦手やったのも思い出したぞ。
 マジで人が少ない集落の人間は、季節と共に色んなことをして生活しているからな。作中のジジイみたいに元気があるんなら、もっと自分らの生活のために仕事してるわ。
 ああ。そうか。大人があんなんだから、キュリオの子ども達も、あんな風に育ったわけか。
 決定権は大人にあり、子供は巻き込まれる。それもまた、青春。

 近未来SFと邦画のかけ算が好きな方にも観てもらいたいね。

郷倉

 倉木さんの感想を踏まえると僕がオススメしたかった理由が少しズレてしまうことに気づきました。
 これは間違いなく、僕の言葉足らずな部分が多々あったからです。本当に申し訳ありません。
 他の作品ならスルーするのですが、「太陽」に関してだけは下方修正させてください。

 まず、「太陽」は青春映画のような側面があることは確かです。しかし、「太陽」は「いわゆるヒーローやヒロインが不在であるにも関わらず、SFであり、青春ドラマであり、ラブストーリーであり、究極の家族の物語として成立させている、まごうことなき傑作な」んです。

「太陽」という映画そのものが、とても多面的な作品なんです。その上で、僕は「生きることの残酷さや、主人公が報われることのない現実を描いた作品」で、「自分の苦しさを映画が引き受けてくれ」るノワール作品として、「太陽」を挙げました。

 その際に簡単なあらすじだけで、あとは自分で見て確認してください、と書いたのは、倉木さんが「いまを生きる」のような大衆が広く感動するような名作を紹介してくれたからこそ、その名作に背を向けた人に手を差し伸べるような力が、ノワール作品としての「太陽」にあると思ったからなんです。

 倉木さんは「都会と田舎の話として語れそう」と書かれていましたが、重要なのは語れそうだけれど、語れない点なんです。
「太陽」はどこまで行ってもSF作品で、SFとは現実にはない仮定の設定で語られるので、現実と虚構の丁度真ん中に置かれ続け、昇華されないものなんですよね。

 都会と田舎の話として「太陽」を語ろうとしても語れませんし、語る意味がありません。そういう答えを出してしまうと意味がなくなってしまう映画なんですよね。
 ここで描かれているのは、「運命の歯車が動き出したら、もう周りが何を言っても止まらない(入江悠談)」時、人はどう動くのか、という人間の根底にある普遍的な恐れだったり、混乱なんです。
 それは青春物語として定義するのは無理があったな、と思います。申し訳ありません。
 ただ、ノワール作品として、人間の根底にある普遍的なもの(苦しみ)から、私/僕を救ってくれる物語ではあるんです。

 究極の話をすれば、入江悠の「太陽」や「ビジランテ」をエンタメの枠組みで語ろうとすると、結論は面白さが分からない、なんです。だって「いわゆるヒーローやヒロインが不在」な物語なんですから。

 とはいえ、入江悠がエンタメを分かっていないかと言えば、そんな訳はなくて、「日々ロック」や「ギャングース」は良質なエンターテイメント作品ですし、今ドラマをやっている「ネメシス」なんてポップで軽快なノリが楽しい十代も見れる傑作です。

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 入江悠はあえて、人を楽しませる物語のルールから背を向けて、届く人だけに届けばいいタイプのノワール映画を撮っていたんだと思うんです。
 だから、映画を紹介する対談の中で、致命的なことを言いますが「太陽」を見ても、楽しいとか面白いと思うことは殆どありません。
 ただ、楽しいとか面白いと感じない映画だから、見なくて良い作品となる訳ではありません。不快になって、もう止めてくれ、とのたうち回って、キャラクターに憤りを覚えたとしても、見るべき映画というのがあります。
 その一つが「太陽」です。

 青春というジャンルを考える時、例えばポンコツ探偵の櫻井翔と優秀な助手の広瀬すずみたいなエンタメ作品(ネメシス)であっても、その根底にはノワール的な、一筋縄でいかないものが含まれていてほしい、と僕は思うんです。
 そして、その一筋縄でいかないものを作品の中に忍ばせる為には、「太陽」のような映画を見たり、あるいは古今東西の文学作品なんかを読む他ないと思って、今回は少々場違いな作品を紹介させていただきました。

奇跡のようなタイミングでうまれた映画。

郷倉

 さて、そろそろ2011年をまとめましょう。
 倉木さんのお話も伺った上で、重要になりそうだなと思ったのは「岳」でした。

「岳」はまさにプロフェッショナルに長澤まさみがなる話で、プロになる為の失敗が丁寧に描かれていました。
 ただ、手放しで最高と言えないのは、山の素晴らしさを映像では描いているけれど、エピソードとしては語っておらず、また山を使ったエンターテイメントにする必要があった為に、プロらしからぬ危険行動を容認してしまっている箇所が散見される点でした。

 なので、小栗旬が大人役を演じたこと、そして、「世界の中心で、愛をさけぶ」や「タッチ」といったヒロインを見事に演じ、守られる女性像として認知されていた長澤まさみを男社会に放り込み、挫折させ、悪態をつかせながら成長させる過程を描いた「岳」は小栗旬、長澤まさみにとって新たなイメージ獲得の挑戦となった一本だと思います。

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 が、2021年から振り返るなら、弱い立場の人間がひたすらに食い物にされる姿を恋愛というフィルターを通して描ききった「モテキ」をやはり僕は推したいです。

『倉木』

 岳は、面白いけど、個人的には無人島に持っていきたい映画ではないんよね。
 長澤まさみの魅力が出てるのも、モテキのほうやしな。

『郷倉』

 無人島に持っていきたい映画のベスト3はぜひ、この連載の中のどこかで発表していただきたいですね。

 モテキも長澤まさみですね。
 公開の順番としては岳が2011年5月7日、モテキが2011年9月23日となっています。

 ちなみに、インタビューに載っていたことですが、モテキで長澤まさみが演じた松尾みゆきは映画の監督の大根仁いわく「すごくビッチな役」だったそうです。
 ただ、決定稿ができる前に長澤まさみ自身が抱えているものを役に投影したい、と提案され「本当は自分に自信がない」ことを長澤まさみが伝え、モテキの松尾みゆきが出来上がったようです。

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 その為、松尾みゆきは「すごくビッチ」な女の子ではなく、「自分に自信がない」が故に、男性との関係の中で自己肯定感を保とうとする女の子になったのだと思います。

 個人的に松尾みゆきは奥行のあるリアルなキャラクター造形になっており、感情の揺れ動きも細かな部分まで描かれていました。
 とくにラストのフェスで彼氏と藤本幸世(森山未來)を前にした瞬間の松尾みゆきの混乱からの、逃走は実に滑らかでした。

 モテキを見る際は、どうしても藤本幸世(森山未來)視点で見てしまうのですが、中盤から松尾みゆきが抱えているもの、感情の揺れを把握しておくと、ラストそりゃあ、二人から逃げるわってなります。
 地獄めぐり的に言えば、松尾みゆきがはじめて地獄から逃げ出した瞬間が、ラストです。

 漫画の実写映画という枠組みの中で、モテキが異質なのは、映画オリジナルであること、そして、長澤まさみ自身が当時、抱えていたものが投影されている映画という点で、僕は2021年から振り返っても重要な作品だと考えていますし、今回の企画の全体をも渡してもモテキが「無人島に持っていきたい漫画の実写映画」ベスト3には入ってくる作品になっています。

倉木

 個人的に、すごくビッチな女の子という枠組みに入れられるような、ステレオタイプな人物にならなくて、良かったと思う。

 万人受けの映画になればなるほど、ステレオタイプのほうが受け入れやすくなる。それは、万人に向けてるから、そうなるよねって当たり前のことやけど、同時にそれは物足りなさを生む要因になってるんちゃうかな。

 ステレオタイプからの脱却として、長澤まさみという役者自身の投影というのを作品にいかしたのは大きい。
 つまり、それってヒロインがどんな女優が演じても、いいわけではないってことやろ。

 とある役者が、この演技しかできない、こういうイメージだから脚本を変えるのとは訳がちがうってのも重要な点やね。

 小説として、一人で名作をつくる訳ではなく、映像化にあたって本当に動いて命を吹き込む立場の女優が、自身の問題と向き合える作品ってのも貴重や。その問題や課題ってのは、ほとんどの場合、時間とともに形を変えていくのでしょう。
 だから、当時の瞬間だからこそ、奇跡のようなタイミングでうまれたからモテキは振り返ってみても、重要な作品なのでしょうね。

 ただ、漫画原作という枠組みでは卑怯だか異質だかの部分があるので、そことのバランスから名作映画が次の年以降にはないかなってのも気になるところです。

郷倉

 確かにモテキは現実から見ると、いるいる、こういう人ってなる人物造形のキャラクターが多いんですが、物語的なステレオタイプは森山未來が演じた藤本幸世くらいだったかも知れません。

 奇跡のようなタイミングで生まれた、というのは、おっしゃる通りなんだと思います。

 モテキは長澤まさみが差し掛かっている悩みを含んで、また、その当時に流行っていたカルチャーを取り込んだ映画で、あの瞬間にしか撮れないものが詰まっています。

 漫画原作という枠組みからみると、異質な為、次の年にある「るろうに剣心」とかとは、少し別けて考える必要があるように思えます。

 ただ、漫画原作の枠組みでモテキだけが浮いているのではなく、この時代性を反映させて、奇跡のようなタイミングで生みだされた漫画原作の映画は他にもあります。

 2013年で言えば、「すーちゃん まいちゃん さわ子さん」で震災から二年後という時代性を掴んで作られた傑作ですし、「海街diary」はテン年代が凝縮されたような傑作ですが、それはその時に語りたいと思います。

 まとめとしては、僕は言いたいことは言った感じがありますが、倉木さんの方はいかがでしょうか?

倉木

 編集後にもの足りんかったら喋るんで、いまは満足です。


“編集後記”

 【郷倉】 実は「ツレがうつになりまして。」という映画が2011年で、語ろうと思っていたんですが、今回はカットしました。また別の機会に語れればと思います。

 【倉木】 本年の紹介した映画は、ホテルのビデオ・オン・デマンドで観た作品がいくつかありました。当時、むちゃくちゃ便利やんと思ったので、Netflixとアマプラを利用する現状は必然だったのかもしれない。

“紹介した映画一覧”

・GANTZ 監督:佐藤信介

・GANTZ PERFECT ANSER 監督:佐藤信介

・スマグラー おまえの未来を運べ 監督:石井克人

・モテキ 監督:大根仁

・岳-ガク- 監督:片山修

・ワイルド7 監督:羽住英一郎

・カイジ2~人生奪回ゲーム~ 監督:佐藤東弥

・いまを生きる 監督:ピーター・ウィアー

・太陽 監督:入江悠



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