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【エッセイ】コロナでも少数派の私の違和感と決意とは?

 コロナが始まってから、いくつかの違和感と向き合っている。
 最も大きな違和感は、COVID-19に対する世の人々の反応である。
 コロナ禍が始まった当初よく言われたのは、「感染者の8割は軽症で、重症・重篤化するのは2割にすぎない」というフレーズだった。私は思った。自分は2割に入る、と。振り返ると、二十代の私は、インドで細菌性赤痢に感染している。バックパッカーのような野性味あふれる旅をしたわけではなく、そこそこ高級なツアーに参加したのに、ツアー参加者の中で私だけが罹患し、帰国後に感染症病棟で3週間を過ごした。そんな私が8割の軽症で済むはずがない。
 ところが、世の人々の多くは、軽症8割と聞いて、「そうか、それなら、まあ大丈夫だろう」と思ってしまうようだ。外出自粛期間中、よく聞かれたのは、「コロナが落ち着いたら、また○○に行きたい。○○がしたい」という言葉だった。要するに、自分達の生活はそのうち元どおりになると思い込んでいる人々が一定数存在するのだ。クルーズ船で次々と感染が広がろうが、仕事を失う人が増えていようが、自分の生活には関係ないのだ。
 なんとも前向きで楽観的な見方だ。そういうほうが生きやすいのだろうとは思う。そういうほうが強いのかもしれない。
 しかし、私はそこまで楽観的にはなれない。「コロナが落ち着いたらー」というより、「コロナ禍を生き延びることができたらー」というのが、正直な気持ちだ。「コロナが落ち着いたら」と時折言うこともあるが、それはあくまで相手を心配させないための方便である。「生き延びることができたら」と言ってしまうと、心配してくれる友人もいるからである。この言葉にはネガティブな響きがあるらしい。私には、後ろ向きではなく、どちらかと言うと、前向きな言葉なのであるが。
 そして、生き延びていくとしても、もうコロナの前と同じ社会には戻れないだろうと思っている。しかし、悲観はしていない。前とは違う生き方を模索したいと思っている。大切な価値観は見失わず、レジリエントに変わっていきたい。そう思っている。

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