見出し画像

キャンパスもテストもなし!「地域を旅する大学」誕生秘話【前編】

これまでにないコンセプトを掲げ、次世代の学びを追求している「地域を旅する大学 さとのば大学」。社会起業家の信岡良亮さんが構想を打ち立ててから5年が経過し、現在は高校卒業後の進路として目指せる4年制コースと社会人向けのマイフィールドコースを展開。18歳から大人まで多世代の学生が全国各地の連携地域に暮らしながら学びを深めています。

今回改めて、どのようにしてさとのば大学は生まれたのか。そしてさとのば大学を通してどんな未来を目指しているのかについて、信岡さんへのインタビューを実施しました。前後編でお届けします。


信岡良亮(のぶおか・りょうすけ)
1982年生まれ。関西で生まれ育ち同志社大学卒業。
2008年に島根県隠岐諸島の中ノ島・海士町にて株式会社巡の環を仲間と共に起業。2014年5月より東京に活動拠点を移し、 都市と農村の新しい関係を創るために2015年株式会社アスノオト創業。
2018年に地域を旅する大学「さとのば大学プロジェクト」を発起し、2019年7月より開講。Forbes Japan「NEXT100 世界を救う希望100人」(2023年6月号)に選出。

■行き過ぎた経済発展の先にあるものとは?過った違和感

――今回はさとのば大学設立に至るまでの、信岡さんのヒストリーを聞かせてもらおうと思います。そもそも、「地域」での生きた学びにこだわっている信岡さん自身は、地方の出身なんですか?

いいえ。大阪で生まれ、京都の大学に通っていました。卒業後は、「東京でITベンチャーを立ち上げる」という先輩に誘われ、設立メンバーの一人として上京しました。なので、20代後半まで田舎とは縁がありません。

ちなみに、その会社は8カ月ほどで倒産寸前になり、お付き合いのあった別の会社に吸収されることになりました。「会社って簡単に潰れるんだ。力がないとダメなんだな」と痛感したこともあって、WEBディレクターとして働く中、「いかに成長できるか」「いかに稼ぐ力を身につけるか」ということに向き合う日々が続きました。終電での帰宅は当たり前。食事の際も、マウスから手を離さないような働き方をしていました。

――多忙なのは今と変わらないのでしょうが、目指すベクトルが現在とは違っている感じですね。

そうかもしれません。それで、心身ともに疲弊してしまったんです。会社と自分の成長だけを目標に、がむしゃらに働いているけれど、「いったい、その先に何があるんだろう?」と疑問をもつようになったんです。

当時住んでいたシェアハウスの同居人に、環境問題に詳しく、『不都合な真実』や『システム思考』などのベストセラーを翻訳された枝廣淳子さんがいたことで、エコロジーやサステナビリティという考え方にも触れ、「経済的な成長だけを追い求める先に、みんなが幸せになる未来ってあるんだろうか?」と、考え込むようにもなりました。

ある勉強会に顔を出したとき、参加者がこんなことを話していました。「こうやって週末、環境問題について勉強しても、平日は大量生産に加担している自分がいる」と。確かにその通りで、満員電車に乗るのが怖くなってしまいました。みんなで地球を壊しに行ってるように見えたんです。まあ、かなり疲れていたんでしょう。それで、いよいよ身体を壊したことを期に、退社させてもらいました。25歳のときです。

そして、「個人個人が懸命に働くことで、明るい未来を実感がもてる生き方ってないものだろうか?」と考えた僕は、関わる人の顔が見える“小さい経済”に、次なる希望を見出します。

■離島で抱いた「大学をつくりたい」という野望

――それが、島根県にある海士町なんですね。

はい。島根県の隠岐諸島に海士町という小さな町があります。廃校寸前の高校を魅力化させて生徒数を増やすなど、過疎地における地域創成のモデルとして全国的に知られていますが、当時は、火がつく直前のような時期。「島をまるごと持続可能にする」というビジョンを掲げ、「よそ者、若者、ばかもの大歓迎」という町の呼びかけに、全国から面白そうな人が集まり始めていました。

知り合いから噂を聞き、3泊4日の下見旅行へ行った僕は、「ここでなら、人にも地球にも優しい社会をつくれるのでは!?」と直感し、その年のうちに移住を決めました。そこで最初にしたことが、「この島に大学をつくりたい。持続可能な社会に向けて、みんなで学ぶための大学を」という提案でした。

島根県の離島、海士町

――いきなり「大学」ですか。環境問題に関心をもっていたのはわかりますが、少し唐突な気がします。

自分の中では整合性がありました。何しろ、「月曜から金曜日まで、地球に良くない経済活動をして、環境問題について考えるのは土日だけ」では、勝ち目はありません。平日を含めてフルコミットで学ぶ場が必要だと感じたんです。イメージは、教育機関というよりも学習機関。共に学ぶための場をつくるという感覚です。

しかも、学びが先にあるんじゃなくて、生きることや暮らすことが先にある。その中で、「これって、どうにかならないか」とか、「こんなことしてみたい」という課題や願いが生まれ、それらを現実のプロジェクトとして実践するプロセス自体にこそ最大の学びになる。そうした活動を通じて仲間を増やしていきたいと考えていました。

――そうした考え方は、今の、さとのば大学につながっている気がします。

ですね。環境・社会・経済の話や、都市と地域の関係性など、今、僕が語っている多くの事は、基本的には、この頃から変わりありません。

現実には、海士町で大学を設立することは叶いませんでしたが、Iターン仲間3人と会社を設立し、視察や研修の受け入れなど、島ならではの学びを体感してもらえる場をコーディネートしたり、食の文化祭や音楽祭など、島を盛り上げる活動を6年半にわたってしていました。ひと言で言えば、「町作り×学びの場作り」。地域で暮らし、土地のリアルと関わりながら、さまざまなことに挑戦し、僕にとってもかけがえのない学びとなりました。

6年半、海士町で交流を深めながら多くのことを学んだ

――ただ、6年半後には島を離れることにしたんですよね。心境の変化があったんでしょうか?

東日本大震災が転機でした。震源地から遠い海士町自体が揺れることはありませんでしたが、僕は、そういうことが当事者化しやすいタイプ。何かできることはないかと、ボランティアはもちろん、避難民の受け入れ準備や復興プロジェクトなどの活動など、公私にわたり継続して行っていました。

けれど、いつしか人々の熱は冷め、これまでの暮らしを見直すよりも、危機が過ぎ去ればいいという雰囲気が広がってきました。「これまでのシステムの問題が露呈したんだから、これからは、足元の暮らしや、生き方を見直す時代が来る。大量生産の社会から、持続可能な社会に向けて、日本中が動き始めるはず」と期待していただけに、むなしさも感じました。あれだけのことがあっても、被災した人以外は他人事なんだ。思ったより社会って変わんないんだ、という寂しさに襲われてしまったんです。
 
――その気持ちは何となくわかります。ただ、それがなぜ島を離れ、東京に拠点を移すことにつながるのでしょうか?

他人事という点では、「いくら、遠くの島で持続可能な地域のモデルをつくっても、東京をはじめとした都市の人にとっては他人事になっちゃうんだな」と思うようになったからです。

でも、本当はつながっているんですよね。経済的に自立しているように見える都会と、自立していないように見える田舎。双方が同じ課題として取り組まなくてはいけないのに、地域固有の問題のように扱われがちです。どうすれば、都市と地域が、お互い他人事ではなく「つながり合っている関係性だよね」って思えるようになるか。

そのためには今までのように田舎からだけではなく、都市からのアプローチも必要です。オセロに例えるなら、角を一つだけとったところで、盤面いっぱいに広がる資本主義の黒い面をひっくり返すことはできません。都市の側にも陣地を取りに行き、両方から攻めていく仕組みをつくりたいと思いました。

そして、2014年5月に上京。2016年には、都市と地域の双方から未来をつくる共創人材作りをテーマに「地域共創カレッジ」という社会人向けの私塾を開講しました。

地域共創カレッジでは●名以上の社会人に学びの場を提供した

■地域に根差しながら学び合う、新しい学びのシステムを構想

――さとのば大学の前身ですね。それがどのように、さとのば大学に発展したんですか?

地域共創カレッジは、地域で挑戦したい人や、既に挑戦を始めている人が、週に1回、平日の夜にオンライン中心に集まり、地域のトップランナーの考え方を学んだり、互いの知見を共有する場です。社会的に「地域創生」のムーブメントが広がり、都市側の空気も変わりつつあったことも手伝い、有料ながら毎回、多くの参加者が集い、著名な有識者や地域のリーダーが惜しげもなく知見を提供してくれました

ただ、地域に赴いて起業する人が現れるなどの実績が出てきた一方、情報をインプットするだけになって実践につながりにくいことも実感しました。社会人向けの私塾という形のままでは、活動が夜や週末に限定され、フルタイムでコミットできないといった限界を感じたんです。

――海士町で、大学を構想したときと同じ課題ですね。

やはりメイン時間をハックしない限り、大きくは変わらない。改めて、大学をつくりたいと思いました。

加えて、複数の大学で講師を経験するなか、大学教育のあり方に疑問をもち始めていました。これまでの大学での学び方では、座学で得た知識を、どう活かしていいかわからないまま社会に出てしまいがちです。自動車教習所に例えるなら、学科だけを学び、路上教習も受けずに、いきなり公道に出るようなもの。

確かに近年、教育現場ではPBL(課題解決型学習)が盛んになってきましたが、単発のプロジェクト学習ではどうしても限界があります。あくまで座学での学習がメインで、プロジェクトがたまにあるみたいな形にならざるを得ないからです。それを逆転させたい。地域に根差した生きたプロジェクトが先にあり、そこから学びを抽出する順番に変えたい。考え抜いた結果、生まれた構想が「地域を旅する大学」としての、さとのば大学でした。

――大胆な発想の転換ですね。

ただ、僕自身は、そうした学びが必要だと確信していますが、それが僕や、僕の周りにいる人たちだけの思い込みなのか、それとも、社会から本当に求められている学びなのかまではわかりません。そこで、「さとのば大学設立準備プロジェクト」を支援してもらうクラウドファンディングに挑戦したんです。

僕にとっては、お金を伴う署名活動のようなものでした。世間に本気度を訴え、それに賛同してくれる人が一定数以上いれば、「これは、僕の独断ではなく、みんなも期待している新しい教育のあり方なんです」と胸を張って言うことができます。それを社会的信用につなげたかったんです。

――世間が賛同してくれるという自信はありましたか?

いいえ。不安で不安で、締め切りまでの90日間で、体重はかなり落ちました。失敗したら、これまで協力してくれた多くの方々に申し訳ないし、そもそも、お金が集まらないってことは「お前の企画は、社会的に意味がないものだ」と突き付けられるようなものです。

初動で思ったほど金額が伸びず、心が折れそうになりながらも、「それでも、この大学には意味があるので、最後まで見守りたいと思います」みたいなメッセージを発信し続けた結果、ギリギリのタイミングで目標額を達成しました。本当にうれしかったです。

クラウドファンディングでは1000万円以上の寄附を集めることに成功した

――思いが結果につながってドラマチックですね。ちなみに、文部科学省の設置基準に準拠した大学とは違うんですよね?

はい。文科省の認可をとるためには、さまざまな制約があり、それではやりたいことが実現できないと感じました。教室という枠の中で、座学での学びが中心とならざるを得ないことに対する懸念です。

一方で、20歳前後の4年間という貴重な時間をいただくからには、学位も取得できるという、社会的に認知されたスキームがないことには、高校生や保護者の理解を得ることが難しいことも実感しました。

その課題を解決するため、通信制大学との提携で大学卒業資格(学士号)がとれる仕組みも模索しました。2021年4月には、新潟産業大学 経済学部経済経営学科の通信教育課程である「ネットの大学 managara」との提携が実現しています。

1年ごとに違う地域を巡って実地で学ぶという市民大学としての自由さと、文科省認定の通信制大学とのダブルスクールによって、場所を選ばずに学ぶことができるという画期的な仕組みです。

こうした新しい学びを通じて、在校生や卒業生が各地で活躍し、「ほら、面白いでしょう。こうした人材が日本中に必要でしょう」という姿を見てもらうことで、大学のあり方も、社会そのものも、大きく変わっていくはず。そうした未来の当たり前を、みんなでつくっていきたいと思います。

(後編に続く)


▼さとのば大学では、進学や転入を検討中の高校生・大学生や保護者様に向けた個別説明会を随時開催しています。
ご興味ある方は、以下のページをご参照ください。

▼​学生の日常や大学最新情報は公式SNSで発信中​!
InstagramFacebookTwitterYoutube


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?