小説「モモコ」第2章〜2日目〜 【10話】
机に出された煎茶を手にとったが、思った以上に熱くてすぐに手を離した。もう一度手に取ろうとおそるおそる手を伸ばす。
畳十畳ほどの小部屋。落ち着かない僕はそわそわしながら正座していた。敷かれた分厚い座布団のおかげか、しばらく足が痺れる心配はしなくてよさそうだ。
「さて、どこから聞いたらいいのかしら?」
ママと呼ばれる女性は、雉谷という名前だと自己紹介をした。
「誘拐されたかもしれない妹を探していて、でも警察には言えない。簡単に言えばそういうことかしら?」
病院に似つかわしくもない内装の和室だが、ここも雉谷整形外科の一室だった。受付の奥の部屋に案内された僕は、靴を脱いで和室にあがり、煎茶でもてなされていた。僕もここまで連れてきたリリカは、モモコの説明を一通り終えると、仕事があるからと言ってすぐに帰ってしまった。
「その通りです」
僕は熱すぎる煎茶を飲むのを諦めて、手を引っ込めた。
「エレベーターを一緒に降りて、振り返ったらもういなくなっていたんです」
先ほどまで病院から引き返しそうとしていた僕だったが、リリカと雉谷の強引さに負けるかたちとなった。雉谷に言われるままに案内され、探偵の依頼人として、事情を話すことになった。
どうやら雉谷は副業として探偵業もやっているらしい。胡散臭く化粧の濃い女医者に相談したところで何がどう変わるわけでもないだろうが、いまの僕には他に当てもない。
「気にかかっているのは、碧玉会のことです」
僕はうつむきながら言った。
「碧玉会という、なんというか、胡散臭い団体があるのですが、知っていますか?」
「ええ」
雉谷はそっけない返事を返した。
「僕と妹はたまたま誘われて、その団体のセミナーに参加したんですが……」
僕は雉谷の顔色をうかがった。実は雉谷も碧玉会の会員だった、という可能性もゼロではない。胡散臭いという言葉でどう反応するかを確かめたかった。
雉谷は僕の心配を察したようで、笑いながら言った。
「ふふふ、心配しないで。わたしは会員じゃないわ。心配になる気持ちはわかるけどね」
「そうですか」
それならば話しやすいし、知っているなら話も早い。
僕は、モモコの質疑応答での出来事を説明した。
導師に無礼な口を聞いた上にセミナーを途中で抜け出したことで、狂信的な会員が怒ってモモコを攫ったのではないか。というのが僕の推測だった。
一通り説明を受け終えると、雉谷は一息ついて、静かに言った。
「その推測は、半分ハズレ、半分アタリだと思うわ」
「どういうことですか?」
「わたしもね、少しばかり胡散臭い商売もしているもんだからわかるのよ。そういう集会に頼ってしまう連中はね、自分から動くことなんてできないわ」
雉谷は首を振ってみせた。
「そうね、例えばね、ものすごく自分の大切にしているものがあったとして、それをひどく馬鹿にされたとする。彼らはもちろん怒るんだけれど、自ら決断して何か行動を起こすことはないわ」
「もしモモコを攫ったのは会員達であっても、それは彼らの意思ではないということですか?」
「理解が早いわね。誰かに意味を与えてもらわなければ生きていけない、世の中にはそういう星のもとに生まれた人たちもいるの。あなたもそのうちわかるわ」
「……そういうものでしょうか」
「ところで、あなた名前は?」
僕は一瞬言葉に窮したが、絞り出すような声で小さく言った。
「ルンバ、と呼ばれています」
「何? あだ名で呼んでほしいの?」
会ったばかりの見ず知らずの人間に真実を話すべきかどうか逡巡したが、隠しても仕方がない。全てを話すことに決めた。
よくよく考えれば、記憶喪失の僕には、見ず知らずでない人間なんていないのだ。
「少し長くなりますが、聞いてもらえますか?」
信じているのか信じていないのか、雉谷は表情を変えないまま、僕の話を聞いていた。時折頷いてくれたのだが、それを見ると少しホッとした。海中で目が覚めたこと、記憶がないこと、モモコと出会ってからこれまでのことを、順番に話した。
正座を続けていたからか、座布団の分厚さの甲斐なく、途中で足が痺れた僕は足を崩す。
全て話し終えても、雉谷はしばらく黙っていた。その頃には煎茶もほどよく冷めていて、少し煎茶に口をつけた。
「こんな話、とても荒唐無稽で、信じられないですよね」
話し終えたあと、雉谷が何も言わないので、僕から口を開いた。
「わかったわ」
「え?」
「さっき、その子の保険証を拾ったと言っていたわね。それを渡して
「ぼ、僕の話を信じてくれるんですか?」
雉谷は迷惑そうな顔をして言った。
「何度も言わせないで。早く保険証を渡して」
僕はポケットから保険証を出したが、まだ当惑していた。これはモモコの保険証だ。悪用しようと思えばいくらでも悪用ができる。本当に渡してしまって大丈夫だろうか。
「なんで保険証を?」
「そんなの決まってるじゃない。その子の情報がなければ、居場所を調べるもの何もできないじゃないの」
それでも僕が迷っていると、雉谷が睨みつけるようにして僕に言った。
「記憶喪失のあなたに、他にできることがあるの? 然るべきときに決断できない男は何も守れないわよ」
圧に押されるようにして、僕は保険証を机に置いた。
「明日もう一度ここに来なさい。それまでに調べておくわ。この保険証は、お金のないあなたからの依頼に対する担保代わりとでも思いなさい。それなら納得できるかしら?」
雉谷は終始、毅然とした物言いをだった。ただ、その日の会話の最後の一瞬だけ、その顔は少し哀しげに泣いているようにも見えた。
〜つづく〜
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