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不機嫌な自分を卒業するための2つの方法

「本人に聞いたら、別に怒っているわけではないらしいけど、どうにもイライラしてるように見えて、声をかけにくいんだよね…」

「ちょっとしたことで、けっこうイヤな表情をされるから、本当怖くて近寄りがたい」

っていう人、周りにいませんか?

これ、僕です(笑)

ドヤることじゃあ、全然ないんですね。白状します。僕はイライラしやすいです。何を隠そう、この世界のイヤなところを見つけてはその社会に「怒る」ことを原動力に生きているわけですから。僕のエネルギー源の話は次の機会に譲るとして、

今日はそんな、イライラして不機嫌になりがちな人について。

僕もそうなんですが、案外こういう人多いように思います。

なんでイライラするのか?怒りがわくのか?不機嫌になるのか?って問うていけば答えは簡単で、「期待と違う結果が返ってきたから」です。

例えば、あなたが高校時代に野球部だったとして、甲子園行きをかけた大事な大事な決勝戦で、仲間の一人がドジをして負けたとします。複雑ですよね。「おまえのせいじゃねえよ!」って口では言いながら、言いようのない悔しさと怒り。

こういう類の「怒り(イライラ)」を、仕事の上でも発露してしまう人がいます。全身全霊で仕事に打ち込んでいる人にとって、ちょっとしたミスで仕事が失敗に終わることが許せない、って感情。

「絶対に優勝する(成功する)!」って思っている大会(仕事)だからこそ、期待と違った結果=失敗が返ってくると不機嫌になってしまう。

不機嫌は成功を遠ざける

あんまりこういう自己啓発本みたいなタイトルをつけたくないのですが(笑)、わかりやすく言うとそういうことで、何か期待と違う結果が返ってきたときに、イライラして、不機嫌になって、周りにあたってしまう人は、成功から遠ざかる、つまり期待しているような結果にもっとたどり着きづらくなる、と僕は考えます。

冒頭の例の逆を考えたらわかりやすく、

「本人に聞いたら、別にうれしいことがあったわけではないらしいけど、なんだか楽しそうに見えて、声をかけたくなるんだよね…」

「ちょっとしたことで、めいいっぱい喜んでくれるから、本当関わりたくなってしまう」

となる方が、どう考えても絶対に、「いい流れ」を引き寄せます。「いい流れ」っていうのは、人の出会い、めぐりあわせ、ご縁、セレンディピティのようなもののこと。

「ゴキゲンに仕事をするほうがうまくいくよね」っていう、さも当たり前の話をしています。

また、期待と結果のギャップがあるとはつまり何かが失敗しているということ。イライラしている場合ではないし、イライラの感情は失敗のリカバリにプラスにならないどころかマイナスです。これはレジリエンスにもつながる話で、失敗したときに落ち込むのもリカバリのためにはマイナス。

期待と結果のギャップがあるときに、怒るのも、落ち込むのも、どちらも百害あって一利なし。ゴキゲンに頑張っているほうが、みんなも助けたくなるというものでしょう。


じゃあイライラしないために期待を捨てよう?

こういう風に捉えちゃう人もいるんですが、これはこれで問題だと思っていて。期待をせず菩薩のように生きようぜ、という。

生き方として否定はしませんが、何も期待をしないということは、甲子園で優勝するぞ!という気概も生まれない、ということ。何も成し遂げません。そんな人もいていいけど、そんな人ばっかりじゃあ、社会はエネルギーを失ってつまらないものなるでしょう。

不機嫌を卒業するためには2つの方法がある

不機嫌やイライラを起こさないためには、期待と成果のギャップを極力少なくすればいいわけです。ただ「期待を0にする」いう案はイケてないよねって先ほど話しました。成果をコントロールできるならそもそも苦労しません。そうなればアプローチは自然と2つに絞られます。

1つは、期待と成果のギャップがイライラを生むプロセスを改変すること。わかりやすく言えば、予測できないこと、未知を楽しんで「どうなるかなぁ」と、先が読めないことを面白がることです。

全ては自然、偶然として受け入れる、とも言えます。ただそこに「どうあるか」だけを考えて、それ以外の現象に振り回されない、という具合。

そういう心的な在り様はめちゃめちゃ素晴らしいし、そうなりたい、と僕も思うのですが、そういうあるがままを受け入れて予測できない自然的な世界を楽しもう!という発想には、僕はどうにもいつも、付いていけない想いがありました。

だからこそ、僕が提唱するもう1つの方法が、ギャップをなくすということ、つまりは、すべてを予測しつくすということです。期待と結果のギャップがあるということは、特定の結果について予測していなかった、ということ。ありとあらゆる可能性を予測しておけば、そもそもギャップなんぞ生まれません。

全てを掌の上で転がしてやるぜ!という感覚。

そんなんできるんかいな?って思うかもしれませんが、案外簡単なことで、それは「失敗することも予測しておくこと」です。そして「失敗した後のリカバリーを予測しておくこと」。

そして最終的には、もっといえば「予測を外れることすら予測しておくこと」です。乱数という言葉があり、いわゆるランダムな数字を出力する箱だと思ってもらえばいいのですが、自分の計画(方程式)に乱数を組み込む感覚。これができると、あらゆることに対して「予想外」と思わなくなります。

「まあまあ、そういうことも、あるよね」と。

実は2つの方法は同じところにたどり着く

これが今回の記事で最も言いたいテーマなのですが、しばらく前まで僕は、後者の「すべてを予測しつくす」に偏って傾倒していて、前者の「未知を楽しむ」は苦手だな~と思ってました。

ただ、よくよく考えて抜いていくと、すべてを予測しつくしていった先にあるのは「まあまあ、そういうことも、あるよね」の世界なんです。それってつまりは、「未知を楽しむ」先にある境地と同じではないでしょうか。

異なるアプローチだと思っていたのですが、両方の発想からたどり着く先が同じであることに、なんだか感慨深さを感じます。

そう考えると、未知を楽しむ、も、なんだかやれそうな気がしてくるのです。


「予測しつくす」と「未知を楽しむ」

「予測しつくす」というのは、未来を描いてそこから現在までの道のりを想像するという、いわばトップダウン的なスタンス。

一方で「未知を楽しむ」とは、特定の未来に固執せず、現在地から前進して訪れる未来を受け止める、という、いわばボトムアップ的なスタンス。

その先に「まあまあ、そんなこともあるさ」というゴキゲンな境地があるのかもしれません。こういう表現をすると老獪なおっさんキャラクターのセリフみたいですが、案外そういうことかもしれませんね。

イライラを隠せなかったり、すぐ不機嫌な態度をとってしまったりする人は、まずもってその状態は「未熟者」の証として自戒していただいて、

老獪なおっさんを目指して、トップダウン的な予測アプローチと、ボトムアップ的な未知アプローチで、ゴキゲンな毎日を送ってもらえたら、と思うわけです。僕もそうありたいと思います。

ここまで読んでいただいて本当にありがとうございます! 少しでも楽しんでいただけましたら、ぜひスキをお願いします!