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言葉を適当に使えば、人生はモザイクなままに終わる。


僕は言葉の力を信頼している。
同時に、言葉の力を恐れてもいる。

だからこそ言葉を大切に扱いたい。
 
言葉はこの世界を、人を、出来事を照らす。
 
だから自分が見ている世界を、遭遇した出来事を、発見した価値を、出会った人たちを、僕は丁寧に、丁寧に言葉を重ねて照らしていきたい。
 
そうしないと、言葉は世界を覆う。言葉が持つ記号化の力に負けてしまう。言葉を適当に使うことは大きな危険がはらんでる。
 
言葉を適当に使えば、それはその人やその心を、そこに触れた自分もを適当に扱ったことになる。
 
もっと言い表せられるはずの心を、気持ちを、出会ってきた人や景色を、簡単な言葉で終わらせてしまえば、それはただの記号として終わってしまう。下手をすれば、それは偏見やラベリングに変わってしまう。
 
僕が生きている世界や、出会ってきた人や、経験している出来事は、そんな記号的なものではない。

それを証明するためにも、僕は言葉を重ねる。
 
言い直したり、
言い淀んだり、
言い間違えたり、
言い換えたり、
いろんな言葉を並べて眺めて、
口にして味わって、
書いて味わって、
沈黙して味わって、
 
何度も何度も何度も、
時間をかけて言葉を重ねる。
 
そして、結局は言い表すことはできなかったとしても、それでも少しでも、僕が生きている世界や、出会った人や、経験した出来事が、僕の中にその輪郭とその姿を、できるだけ鮮明な解像度で残したい。
 
そこに少しでも近づきたい。
 
適当な言葉で終わらすことは、そのすべてがモザイクなままに終わらせることだから。
 
言葉を重ね、言葉を尽くすことは、人生の解像度をあげていく。
 
解像度があがるから、僕らは世界と人と出来事の美しさに感動できる。
 
もし今この世界に、この人生に、この日々に、
感動が足りないのなら、それは言葉が足りないんだ。
 
丁寧に心の奥から汲み上げられる言葉。
 
そういう言葉に、僕は照らされて生きてきた。
 
そういう言葉に照らされながら、
これからも生きていきたい。

そして僕も、誰かを照らす人になれたらと。

さとし

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