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ヨハネの手紙第一2章22節ー23節

「主イエスはキリスト」
ヨハネの時代の教会は異端の教えの流行に悩まされていました。ヨハネはこういう人々をはっきりと偽り者だと告げています。具体的にどこがどう偽りなのでしょうか。主イエスがキリストであることを否定するからです。実際、彼らは主イエスの受肉を否定し、十字架の贖罪をも否定します。その結果、罪の力も過小評価し、罪からの救いも強調しなくなるのです。しかし主は私たちを肉体ごと救うために肉体ごと十字架で死んで下さったお方です。

それでは、主イエスを認めないとどうなってしまうのでしょうか。必然的に主イエスをこの地上に送って下さった父なる神をも認めないことになってしまうのです。従って、ヨハネは彼らのことを御父と御子を認めない者と呼ばざるを得ないのです。どれだけ現代的で魅力的に映ることを主張して、耳障りのいいことを告げたとしても、関係ありません。そのような教えはキリストに反する反キリストの教えです。そこに真理はないというほかありません。

人となられた神の御子を公に言い表す者だけが父なる神を持つことができるのです。父に結ばれ、父との交わりに生きるのです。たとえ自分たちは神を知っていると証言したとしても、正しくキリストを信じない者は、神との交わりに生きているとは言えないのです。イエスの名を受け入れた者は神の子となる資格を得たと福音書にある通りなのです。しかも、イエスは単なる人であるとか、肉体を持たない霊なのだという理解ではいけないのです。

ところで、ここでいう公に言い表すとは礼拝においてともに同じ信仰を告白することを指すのでしょう。教会から去ってしまった彼らはその時点でその資格がないことは明らかです。
古代の教会の指導者は教会を母として持たない者は、神を父とすることはできないという言葉を残しました。確かにその通りです。教会に繋がることなく信仰を保つなど不可能な話なのです。教会にとどまり、愛の交わりの掟に生きることこそ信仰に歩むことなのですから。

このように考えるならば、私たちが主の受肉と贖罪を信じる信仰を持てた恵みを改めて教えられるのではないでしょうか。決して当たり前の話ではないのです。こんな不思議な出来事を信じ、告白することができたのはどこまでも聖霊の働きによるのです。聖霊に教えられたのです。あなたがたは聖なる方から油を注がれているとある通りです。私たちはこれからもこの福音の中に留まり、主を証しする者とさせていただこうではありませんか。

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