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ルカ7章11節ー17節

「泣かないでください」
召天者記念礼拝でともにお聞きする物語は主イエスと一行がカぺナウムから40キロほど離れたナインの町を訪れたところから始まります。葬列と出会うのです。当時、町の城壁の中は生きている者の領域で、城壁の外は死の領域でした。死が遠ざけられるのです。現代では死はもっと見えづらいのではないでしょうか。死を見なくて済むように、生きている者の周辺へと追いやられます。それほど人は死を見つめるのに耐えられないのです。

この葬儀が通常と異なるのはわが子の葬儀だった点にありました。子どもが親の葬儀をするならわかるのです。しかし、親がわが子の葬儀をするほど悲しいことはないのです。若者とありますから、余計につらい現実です。しかも彼女はやもめだったのです。結婚相手に先立たれ生活を困窮していたはずです。それなのに我が子に養われる未来を断たれ、経済的基盤までも喪失したことになります。

ところが、主イエスはこの葬列の行進をお止めになられたと言うのです。理由は彼女を深く憐れんだためです。良きサマリヤ人のたとえや放蕩息子のたとえと同じ言葉が使われています。主は人生の涙を誰よりもご存じなのです。その上でもう泣かなくていいと仰るのです。遺体に触れることは汚れだと信じられている社会で、主は棺に手を伸ばしてなきがらに手を触れられるのです。それほどの固い決意でこの死を主イエスが引き受けたもうのです。

主は人がいのちを落としてでも、なおそこに手をお伸ばしになられます。それどころか死者に語り掛けさえなさるのです。起きよと。いのちの主が訪れたからには死が決して終わりではないと宣言されるのです。必ずその先があるのです。事実、み言葉が臨むときに死んだ者は生きるのです。悲しむ者に愛する者をお戻しになることのできる方がここにおられます。

群衆が大預言者が現れたと驚くのも無理はありません。ナインはかつて預言者エリヤが死者を生き返らせたシュネムの町に近いのです。預言者エリヤ・エリシャを想起しても当然です。預言が廃れた時代に、主イエスが神の言葉を語られ始めます。悲しむ者を慰め、死に向かう者の歩みを止めるために。死は決して終わりではない。やがて主が愛する者をわたしたちに返して下さる復活の日が訪れます。その日を信じて慰められ、いのちの主を仰ぐのです。

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