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『A GHOST STORY』のゴーストは、時空を超えたのか?

 NetflixとAmazonPrimeでの配信終了間際に『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』を見返しました。劇場公開時に映画館でも観ましたし、ブルーレイも持ってるんですが、「配信での再生回数」に私の1回分をプラスするという投票的な意味も込めて、配信にて鑑賞(未見の方はぜひ。現在はAmazonPrimeで観れますよ)。

 この作品、大好きなんですよねー。どのくらい好きかっちゅーと「2010年代に観た映画」の中でも「人生ベスト」の中でも上位に入るくらい好きな映画です。
 どこがそんなに魅力なの? と考えるとこれまた難しいのですが、自分がなんとなく「こんな感じの映画を撮ってみたいなー」と曖昧に夢想していた映画をまんまと先に作られてしまったような悔しさを感じながらの鑑賞だったことも、思い入れの一因ではあると思います。

 ※以下、作品内容に触れていますので、未見の方はご注意ください。

 とはいえ、私は幽霊モノが撮りたかった訳ではありません。
 「私が撮りたかったもの」をかなりざっくり言語化するならば、「哲学的で普遍的なテーマをごく限られた要素だけで描いた作品」ということになると思います。本作はこれを、わずか2人(またはほぼ1人)のメインキャラクターで、わずか90分ほどの尺で、あっさり成し遂げているように感じられました。大げさに聞こえるでしょうが、手塚治虫の『火の鳥 未来編』を連想したりもしました。
 あと、映画で幽霊をどう表現するかって考えた時に、目のところに穴を2つあけただけの白いシーツっていう、古風を通り越してもはやギャグとしても流石にないやろっていう表現をぬけぬけとやりながらも、おふざけにならず、全体としても非常に美しい映画としてまとめられていたことにも驚きました。かつて押井守が「(CGによって)全ての映画はアニメになる」と予言したように、作り手が想像さえできればどんなものでもCGで作れるようになり、実写もアニメ同様、画面の隅々までコントロール可能になった時代に、あえて選択されたアナログな手法が、四隅が丸い4:3の画角とも相まって、温かみや優しさや親密さのようなものを際立たせていた点も好感でした。

 ところがどっこい、ネットで感想を見てみると、「退屈」「寝た」「全然分からん」「イミフ」「時間の無駄」といった声がけっこう目に入りました。中には「ただの自己満を見せられて不快」「インテリぶってて不快」など、苦情レベルの感想もあって、初見で「おぉー!素晴らしい映画を観たー!」という満足感に浸っていた身からすると、けっこう驚きました。もちろん、表現物に対する感想というのは、触れた時の年齢や環境やその日の精神状態なんかにもたやすく左右されるので、あくまで「きちんと観た」上でならどんな感想を持とうが自由ですし、否定的な意見が出る理由や箇所もなんとなく予想はつくので、理解できる気はしますが。
 「退屈」「長い」と感じた方。特にあそこですよね? Cが幽霊になるカットと、Mのドカ食いカットですよね? うん、まぁ、たしかに、あそこで脱落しちゃう人がいるのは分かります笑。そこに行くまでに作品世界に没入できてれば、そこで表現されている喪失感とか虚無感とか孤独といった感情が胸に迫ってきたり、あるいは「細部に目を凝らそうモード」になって画面の隅々を確認してたりするので、あまり気にならないんですが。乗れなかった場合を考えると、たしかにあそこは、1カット1カットが長めの本作の中でも特に長いですよね。「それはもう分かったってば!」みたいになっても不思議はありません。

 でも、今回私が考えたいのは、そういう否定的な感想に対する反論ではなく、むしろ肯定的な感想の中にも散見された「時空を超えて彷徨うゴースト」的な解釈についてです。
 本作の後半部に訪れる怒涛の展開を「時空を超える旅」「タイムスリップ」と表現した文章を、個々人の感想だけでなく映画関連サイトのあらすじ紹介文などでもけっこう見かけました。

 ですが……「時空を超える旅」「タイムスリップ」、してました?

 私はしていないと感じました。もちろん、カットとカットの間、シーンとシーンの間は、場所によって数分だったり数日だったり数ヶ月だったり数百年だったりはするでしょうが、タランティーノ的に時間軸がシャッフルされてたり、未来に飛んだり過去に戻ったりはしていないのではないでしょうか。たしかに、未来的な高層ビル群のシーンの後に開拓時代らしきシーンがあるので、そこで「過去に戻った」と解釈された方が多かったかもしれませんが、あれは「過去」ではなく「我々には過去に見える未来」だと、私は思いました。
 理由は単純で、上記のシーン以外、本作において「幽霊は時間を飛び越えることができる」と読める描写はないからです。上記のシーンも、そこだけに注目すれば「タイムスリップと見なせる」描写ではありますが、そこ以外に同様の箇所は見当たらず、他のシーンはおそらく時系列順に並んでいます。

 もし「高層ビル→開拓時代」の部分を「過去に戻った」と解釈するなら、その一箇所だけ時間の進み方が逆ということになります。もちろん、監督にインタビューしてみたら「そだよー」と言われるかもしれません。ひとつの作品内で通底するはずのルールや価値基準と齟齬を来す要素を意図的に挿入する可能性は当然あり得ます。が、「幽霊はタイムスリップできる」という作品内での理屈は示されていませんし、何より物語上の必然性・必要性がありません。本作で示される幽霊の特徴は「未練や執着が消えるまでは、それらが残る場所に留まり続けるらしい」ということだけです(なんとなく「成仏」に近い、東洋的な考え方だなーと思いました)。そして、未練や執着が消えるまでにどのくらい時間を要するのかは明示されません。

 幽霊となったCは、悲しみに暮れていたMがやがて新しい生活に足を踏み出すのを見届け、次に入居してきた移民家族を追い出し、その次のパーリーピーポーもいなくなり、空き家となった家はあっけなく取り壊され、かつて家があった場所は再開発され、高層ビルが建ち並ぶ大都会となり、やがてそれらも全て崩れ去り、人間が築いた文明も一旦滅び去り、再び自然を取り戻した場所を「次の人間たち」が開拓し、かつての自分とMに瓜二つの恋人たちがあの家に入居し、再び人間の歴史が繰り返される。
 「高層ビル→開拓時代」の部分も含め、本作は時系列順に語られている物語だ、と解釈するならば、後半部分はそのように読めます。それが、私が『火の鳥 未来編』を連想した理由です。ニーチェの言う「永劫回帰」を映像化した物語、とも言えるでしょう。

 台詞の少ない本作の中で最も饒舌なおっさんの台詞も、この読み方を補強してくれていると思います。彼はパーティーの席上で、ニーチェ的な、虚無主義と永劫回帰の考えに基づいたような話を語ります。
 人間は自分が生きた証を残そうとする。音楽家は音楽を作り、作家は物語を書き、画家は絵を描く。それらの中で名作と呼ばれたものは永遠に残るように思える。ベートーヴェンの第九はきっと人類の歴史に残り続けるだろう。でも人類の歴史も永遠じゃない。地球も永遠には存在しない。いつか太陽が寿命を終える時、その爆発に巻き込まれて消える。いや。でも。地球が消えても、今の人類の歴史が終わっても、次の人類がまたどこかで繁栄するかもしれない。そのとき、一人の少女が、第九のあのメロディーを、ふと口ずさむかもしれない。でも、その人類も永遠には繁栄しない。またいつかは消え去って行く。結局、全てはいつか無に帰すことになる。
 エンドロールでPrognosticator(予言者)と表記される彼は、そんなことを語ります。あまりにも「それを言っちゃあお終いよ」な、残酷な言葉です。何かを作りたいと思っている人が耳を傾けてしまってはいけない、虚無感と無力感と徒労感に満ちた言葉です。でもきっと、単なる事実なんですよね。たしかに予言と言えるかもしれません。そこが恐ろしい。

 自分も、映画を作りたいという思いは持ちながらも、同じようなことをよく考えてしまいます。小学生のころ、「マンガでわかる 宇宙のふしぎ」みたいなやつを読んで、地球は46億年前に生まれたとか、宇宙は138億年前のビッグバンで誕生したとか(現在は、ビッグバン以前も宇宙は存在したという説もあるらしい)、銀河は何千億個もあるとか(現在は、観測可能な範囲で推定2兆個らしい)、宇宙は今も膨張し続けているとか、そんなことを知ったとき、あまりにもスケールがデカすぎて、太陽系の中の地球の中の日本の中の兵庫県の中の神戸市の中で細菌の如くちょこまか生きてる自分の人生がせいぜい80年くらいで終わると考えた時に、あまりにも自分の存在がしょぼすぎて、人生そのものが無意味に思えて怖くなると同時に、「じゃあもう宿題なんか金輪際やらなくても良いのでは?」と開き直りそうになったことがありましたが、それ以来、頭にインセプションされてしまった虚無感を否定できずじまいで今に至ります。ああ、恐ろしい。

 閑話休題。ともあれ、このおっさんの台詞からしても、本作はやはり虚無主義と永劫回帰的なテーマを描こうとしていると思います。しかもこの、残酷な真実を語る「予言者」を演じているのは、本物のミュージシャンである、ボニー・”プリンス”・ビリーことウィル・オールダムですし、主人公Cも音楽家という設定ですので、この第九についての、音楽が永遠に受け継がれ続けることはあり得るかについての話に、特に意図がないとは考えにくいです。
 ただし、Cの幽霊が予言者の言葉を聞いた時、移民家族を追い出した時と同様、家の灯りが激しく明滅しているので、おそらくCは激昂し、再びポルターガイストパワーを使ってパーリーピーポーを追い出したんだと思います。主人公は、彼の虚無主義的な考えを拒否したかったのでしょうね。
 また、勘違いかもですが、はるか未来の開拓者の娘は、Cが劇中で作る歌のメロディーの一部を、ほんの一瞬口ずさんでいるように聴こえます。もしかしたら、Cが生み出した音楽はひとつ前の人類の遺産として生き残ったのかもしれません。この描写も、予言者の言葉を裏付けるものと言えそうです。

 ……とまぁ、書き連ねてきたあれこれを総合的に踏まえますと、本作におけるゴーストは、タイムスリップしたり時空を超越したりはせず、同じ場所に留まり続ける存在である。編集的にも、壮大なジャンプカットはあるものの、あくまで時系列順に語られた物語である。一見過去に見えるものも同一時間軸上の未来である。と解釈するのが、最も自然で、分かりやすく、テーマにも合った読み方じゃないかな、と思います。もちろん、それが唯一無二の正しい解釈だと言いたい訳ではありませんが。

 それにしても、こんなにも素晴らしい映画を作っておきながらも、その中でものづくりに対する虚無感を堂々と語ってしまう、というか逆に、きちんと台詞に落とし込めるほどものづくりに対する虚無感を認識していながらも、素晴らしい映画を作ってしまう、監督・脚本のデヴィッド・ロウリー恐るべしです。
 本作の次に撮った『さらば愛しきアウトロー』は、一転して軽やかな犯罪もの(であると同時にロバート・レッドフォードの俳優引退作)でしたし、現状の最新作『The Green Knight』は時代劇ファンタジーだし、その次はディズニーの『Peter Pan & Wendy』だし、なかなか掴みどころがない監督ですが、新作が楽しみな監督の一人です。本作と同じく、ケイシー・アフレック&ルーニー・マーラが主演を務めた過去作『セインツ ー約束の果てー』も未見なので、観てみたいです。


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映像ディレクター。自主映画監督。 映像作品の監督・脚本・撮影・編集などなどやっております。