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人生の修行期間-座右の諭吉

さいきん、本棚にある本の多くをメルカリに出品することにしている。

『僕の本』ではあるけれど、呼ばれたら(注文が入ったら)誰かの本になる‥という、所有概念を曖昧にする『本棚シェアリング』の実験。




本当はクローゼットでもこれをやりたいが、使用頻度によって汚れや劣化、『商品の状態』が変化してしまうので、今は本を中心にこれをしている。



ここ数日、齋藤孝著書の『座右の諭吉 才能より決断 (光文社新書)』という新書を読んでいる。

この本を簡潔に紹介すると、著者がディレクションをした福沢諭吉のエピソードと共に、『人生訓』や『生きる指針』が詰まっている本となっている。

(齋藤孝さんの本は記憶しているだけでも10冊近くは持っているような気がする)


第二章が『修業の章』とされており、「13 修業期間を自ら設定する」(P86)というところを読み進めながら、いまキーボードに向かっている。


気になったのは、福沢諭吉のエピソード‥ではなく、建築家 安藤忠雄のエピソードだ。


『彼は高校在学中にプロボクサーの資格を取得し、海外遠征まで果たしている。その後、室内装飾のアルバイトなどをしながら世界中を放浪し、建築物をスケッチして独学で建築を学んだ異色の経歴を持っている』‥というようなことが紹介されていた。


あの世界的な建築家『安藤忠雄』にも、こんな時期があったのか。‥でも思い返してみると、先日読んだ松浦弥太郎著書『今日もていねいに。 暮らしのなかの工夫と発見ノート (PHP文庫) 』でも、松浦弥太郎の同じようなエピソードが紹介されていたような。‥


自分の中でそれを『修業』と定義するかは別だけど、僕も旅をしながらよく「お坊さんみたいだね」と言われてきた。ある人からすると、僕の日々は修業・苦行をしているように見えていたようだ。



「もう少し面白そうに旅をしていたら違う印象だったのかな?」なんてことも思うけど、僕は僕で楽しく日々を送っていたし、一方で『知見の蓄積』を意識しての行動だったので、修業といえば修業だった。


道から外れる怖さはあったけど、外れた道からしか見えない景色、自ら道を作っていくあの感覚は、なんとも言えない心地であった。


何かを犠牲にしながら、何かを得るために行動を興す

そのときそのとき、優先順位や環境、視野は違えど、一度しかない自分の人生だもの、大きな決断で振り切って生きてみることも面白い。



自分の知識や経験は、誰にも奪われることのない、最大の財産となっている【はず】だ。





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