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教育実習と「働く」に似た何か

 「働くとは何だろう。」

 小学校に教育実習に来ている今、そんなことを考えた。


 実習生として毎朝8時頃に出勤し、子どもたちと一日を過ごす。休み時間は鬼ごっこやドッチボールで遊び、授業では指導教諭のサポートをする。子どもたちが帰った後は、教室の掃除や宿題の丸付けなど事務的な作業をして帰路につく。

 家に帰るときには身体中を程よい疲れが、そして「今日も一日生きたなぁ」という安堵が胸を埋め尽くす。

 正直俗的な言い方をすると、実習は「最高に楽しい」の一言に尽きる。晩御飯は実習に行く前の2倍は食べるようになったし、健康的な生活リズムになったため肌の張りも良くなった。実習中に不安障害の症状がでてしまったらどうしようと考えてしまうときもあるが、頓服薬も持っているし、幸いこの1週間強い症状が襲ってきていないためほとんど負担にはなっていない。もはや、充実している生活とはこのようなものなのかとさえ思えてくる。

 そんな一週間の中で、自分の中に1つの疑問が生まれた。それが冒頭の「働くとは何だろう」というものである。


 今の私が「働く」という営みの中に求めるものは、「緊張感」と「金銭」の2つである。

 人間はお金がないと何もできない。特にガスや水道、電気などのインフラ整備が普及しきったといっても過言ではない我が国においては、お金がなければ生きていくことさえ難しい時代である。何らかの理由で仕事が出来なくなってしまった場合は、金銭的に生きていくことは難しくなるだろう。

 私は自分の人生にそういう類で責任を持ちたい。自らが働けなくなれば人生の幕を下ろしたいし、他人に迷惑をかけることなく消え去りたいと切に願っている。「緊張感」とはそういった意味で「生きる上で責任を背負いたい」ということである。

 星野源の著書『働く男』の中にこんな一節がある。

表現に対価が発生し、そのお金のやり取りがある中で、その厳しさの中で、やりたいことを追及していきたい。それが、僕のやりたいことです。

 彼が「厳しさ」という表現で表すものこそが、私が求める「緊張感」そのものなのだ。


 自分の言葉で文章を書くことを楽しいと思えるようになった、このnote1つでさえ、一度読者の皆様に飽きられてしまえば文章を読んでもらうことさえ難しい。だからこの文章も充分に推敲し、本当に自分の伝えたいことが曲解される恐れがないかを真剣に見つめなおしながら書いている。結果として本文が短くなってしまっているのは、我が身の不徳の致すところであるが。

 「匿名だし金銭の発生もないのに臆病でどうする。もっと過激なことで関心を集めて、そこそこ稼いでいる奴らもいるじゃないか」なんて言葉が飛んでくるかもしれないが、私はそうはなれない。「他者との関わりの中に身を置くこと活動をしている」というプライドを持って人生に臨まなければ、きっと本当の無関心を買ってしまったときに酷く後悔することが目に見えているからである。

 勿論、こんな稚拙な文章で食べていけるほど世の中は甘くないと確信しているし、自分の言葉で金を稼げるとは全く考えていない。それでも、こんな未熟者のnoteを読んでくれるような読者の皆様に、そしてこのような投稿サービスを運営している方々に対して、作品という形でひたむきに自己研鑽しながら向き合うことが、今の私に出来る「働く」に似た何かなのだと考えている。


 冒頭の問いに対して、明確な答えのないままに締めくくるのは我ながらどうかと思うが、残りの人生で答えが見つかればいいなと思い、このエッセイを残します。


 実習で多忙のため、更新に日数を要してしまいました。

 今後も作品作りに邁進してまいりますので、何卒宜しくお願い致します。




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