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ボルサリーノにタンゴパンプスー私の性自認、性的志向、ナルシシズムのこと 9


さて、段々と核心へと迫ってきています。そろそろ私が性自認/性的志向について一番悩み、苦しんでいる部分に触れようと思いますが、その前にワンクッション置きましょうか。

ご覧の通り、私は文章での一人称を「私」としています。ネットを始めた頃から、ずっと私の一人称は「わたくし」でした。自分のHPやブログだろうと、SNSだろうと、旅関連の掲示板であろうと。けれどそれらがサービス終了したり、過疎ってしまい放置して更新せずにいるうちに某短文SNSを初めて、文字数の関係上「わたくし」だと不都合なので「私」にしたのですが、読みは「わたくし」です。ですがnoteでは文字数制限がありませんので「わたくし」にのっけからすればよかったです。でも今更途中で変えるのもどうなのかなということで「私」としておきます。性自認あやふやで、どちらかといえば男性になりたい寄りの中性のつもりの自分なのに「俺」「僕」「おいら」など男性が使うとされる一人称を使わないのは「わたくし」という一人称を使う男性像がいいと思っているからです。それにニュートラルですし、なにより上品だと思っているので。ちなみに喋る時にも私は「わたくし」と言っています。時と場合にもよりますが。

小学5年生の頃、家庭科は担任ではなく別の先生に教わったのですが、今思えばその先生(女性)は相当進んでいました。私が6年生になる前に定年退職したので今は90代でしょう。今じゃ当たり前かもしれませんが、男子女子の差なく「さん付け」で呼んでいました。そうするわけを最初の授業で話してくれたのは記憶にありますがはっきりとは覚えていません、残念ながら。みんな初めは戸惑っていましたが、あの先生を慕っている子は多かったと思います。怒ると怖かったけれど、筋が通っていたし普段は優しく、雑談もものすごく面白かったです(いつぞやに書いた、中3のときの担任もこのタイプでした。私はこういう人が好きなんだと思います)。私が6年生の頃、用事があったのか先生が学校に来たのですが、周りに生徒が沢山ワイワイと集まりました。分かる子には分かるんですよね、本当に生徒を思っている先生かそうでないのかが。

本題に入りましょう。私が今、性の問題で一番苦しいと思っているのは、自分がアセクシャルではないことです。たった一度だけ、女性を好きになったことがある話をしましたけれど、(少なくとも今の)私は異性愛者なのだと思います。わざわざ自分をカテゴライズする意味はないと思いますが、事実なので仕方ありません。異性愛者というのはマジョリティな存在ですが、それが普通だとか当たり前だと思ったことは私はありません。それどころかなぜ自分は異性愛者なのだろうか?という疑問を持ち続けていますし、もっとはっきり言いますと、異性愛者であることがつらいです。自分が異性愛者であることというのはこの私が選んだことなのでしょうか?それともなんなのでしょう。好きでヘテロセクシャルになったわけではない、なろうとしてなったわけではありません。

では何故アセクシャルになりたいのか......?「性」というものが面倒くさく、厄介だからです。アセクシャルになれる薬があれば飲みたいほどです。恋愛感情や性欲は私には要らないし、惚れた腫れただの嫉妬だのという感情を持ちたくも持たれたくもないのですが、現実はそういうわけにもいかないようです。そんなもの、棄てられるものなら棄てたいですが、その方法が分かりません。棄てられるのであれば、私は誰かに恋愛感情を持って苦しむことも、対象がいなくて寂しい思いをすることもないでしょうし、好意を持っている相手がどこぞの誰かに恋愛感情を持っていたり性欲を抱いていたとしても気にならさそうな気がします。想像の世界でしかないので、そんな甘いものではないのかも知れませんが。こんなことを書いていると、お前も恋愛至上主義者かよ!と思われかねませんが、きちんと初めから読んで下さればそんなことは言っていない、思ってもいないということが分かるかと思います。恋愛、性愛を嫌悪しているわけでもなく、賛美しているわけでもない。私としてはまたいつか恋愛はしてみたいです。が、当然ですが誰でもよいわけではありませんし、他の何をおいても恋愛!恋愛!ではありません。優先順位的には下の方ですね、人生でやりたいことの。そもそも恋愛を「すること」と言っていいものかもよく分かりませんけども(恋愛って状態であって行為じゃない気がするので)。

以前にも書きましたが、私は男性関係でいい目にあまり遭ってないのです(良いこともありましたけれど......こんな風に考えて意味があるのか果たして分かりませんが、男性がらみのあれやこれをプラスマイナスすると明らかにマイナスです)。なのに異性愛者であることが自分でも何故だか分かりませんし気持ち悪いです。子供時代は父に容姿をひどく貶され、可愛らしく愛嬌もある妹とは露骨に差別され、10代の頃は学校でブスだの汚いだの言われていじめられ、20歳になる前に性暴力を受け、大人になれば奨学金返済と家から出るための資金を稼ごうと夜の商売の世界に入り、元交際相手からはDVを受けーー自己責任、自分で選んだんだろうにという言葉は結構です。とにかくも男性にされたあれこれや加害者を思い出したくないというより、相手に私に関する一切の記憶をなくしてほしいと願う気持ちの方が圧倒的に強いです。それほど相手は加害欲の強い、変質者ばかりでしたから。それなのに、どうして私は異性愛者なのでしょう。むしろそんな目ばかりに遭ってきたからなのでしょうかーーそれが完全には否定できそうにないので本当に苦しいです。自分が気持ちの悪い生き物のように感じて、吐き気すらします。これって、所謂「素敵な彼クン」が出来れば収まるものなんでしょうかね?これから先に出来そうもありませんけれど。相手は誰でもいいわけじゃないですしね。まず今のこの私を恋愛の対象、性的な対象として見ている人はいないでしょうし現れるとも思えません。そもそも若い頃から「誰かと愛し合っていた」という経験をした覚えはありません。交際自体はそれなりに、カジュアルなものから私としては真剣だったものも経験がありますが、そもそも恋愛において愛し合うってなんでしょうね?ひねくれて、こじらせて「愛なんてなんだか分からん、知らん」と言っているのではありません。

「性愛」や「身体目当て」というものもいまいち分かりません......。というか、私にとっては謎、大袈裟に言うと不可知の域です。何度かお話したことがありますが、私の母は造形的には美貌の持ち主でしたが、私が物心つく頃にはボロをまとって、顔も洗わず、髪をとかさず、歯も一切磨かず、風呂には入るもののきれいに洗えておらず、トイレを使ったあとは......。とにかく身だしなみに気を付けないどころか、相当不潔でした。また、ろくに動きもせずに毎日ゴロゴロと寝転がってお菓子やジャンクフードを大量に食べていましたので超肥満体だったのです。けれど私が10代の頃、父と母は性的な行為をしていました。これ、私の感覚が異常なのでしょうか、それともまともなのか......?正直分かりませんーー私としては非常にグロテスクに思えるのですが、そんな不潔で魅力のない相手、しかも毎日罵り合う相手と性行為がしたいと思い、出来るということが私としてはありえません。常軌を逸しています。「そんなことが出来るだなんて信じられません」と言いたいところですが、事実彼らはしていたので......。「身体目当て、快楽目当てとは一体?性欲を満たす行為が出来れば、相手は誰でもいいのか?より自分好みの相手としたいというわけではなく?」と子供の頃の私は吐きそうになりながら考えました。答えは今でも出ていません。

彼らの行いを知ってしまったために私は性的な行為を「愛の確認」「愛し合っている者同士がすること」だとは全く思ったことがありません。愛していない相手でも性交が出来るどころか、不潔で悪臭がする相手とでも出来る人もいるということをよく知っているからです。もちろん、そんな相手とは出来るわけがない、好きな人とだけしたい、もしくは好きでもしたくないという人がいるのは分かりますしそれが大半でしょう。私もそうです。けれど一度とて性行為と愛が結びついたことがないのです。たとえ私が相手に好意を抱いていたとしてもです。性的行為って、私にとっては数多あるアクティヴィティの一つでしかないのですが、パートナーとしたいことの上位には入らないのですーーここでまたとんでもない勘違い、誤解をする輩がいそうなので書きますが「性行為はただのアクティヴィティだと思っている/人は好きな相手でなくともも性行為は出来るのを知っている/自分は性行為を愛の行為と考えたことがない」イコール「誰とでも性行為が出来る/誰とでもしたい」というわけではありません。私は性を嫌悪しているわけではありませんが、もし好きな人、交際相手が出来たならばその人とは性的行為より、芸術の話をしたり、学問について意見を交わしたりしたいだけです。そんなことだったら別に恋愛云々じゃなくてもいいだろう?友人や知人とでもしておけよ、と言われそうですけれども、私はパートナーにはそういう会話を楽しめることを求めています。ではそういう会話ができる友人知人とパートナーの違いは......?これまた、私は答えが出ていません。そもそも、私はリアルで恋愛関係(およびそれに近い関係)ではない人とはこのような会話を愉しめたことがないのですから(逆に言うと、そういう会話を愉しめる人を好きになってしまうという傾向にあるということです)。苦しいですよ、正直。何度も言っている通り私はナルシシストですから。自分が関心のある話題が出来る人を好きになるのは自然......かどうかは分かりませんが、不思議ではありません。別に私は自分がもう一人欲しいわけではありませんから、意見、考えが違ったっていいんです。この人と世界観を共有したい、私の知らないことを教えて欲しい、そして2人の文化を創造したい。これが私の理想です。幾度も「そんな人はいない」「理想が高すぎる」「我儘」と言われましたが、みんな随分適当なことしか言えないのねぇと思いました。どこかの誰かを無理やり私の色に染めようとしているならともかく。

本当はこの9回で終わらせるつもりでいたのですが、書いている途中であれこれ書きたくなってしまって、長くなりそうですので、続きは次回に譲ります(なんだかキリが悪いのでこの回にもうちょっと書きたい気もしますが、やめておきます)。残りあと1、2回を予定しています。

続く