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夢のノッティングヒルに散りそこなって夏、アルゼンチンのマリア

冷蔵庫が壊れているので、一食分の肉と野菜を買って念入りに洗ったフライパンで焼いて食べる。 リビングは足の匂いなのか髪の匂いなのか腐った食べ物なのかわからない匂いをとにかくファブリーズで表面だけなんとかしていますといった香りで満載、しかし人間慣れてしまうものである。
工事現場で働くロンと、警備員をやっているジュリーと、無職の自称アーティストのパムとあとは全く喋らない細身の白人男性(いつも裸足)この辺のメンバーが私のおなじみの夕飯仲間となっていた。
彼らは私と同じく適当に焼いたものやパンなどをかじっているが、全員歯が数本しかない。
あのコメディアンが面白いとか散歩にはこのコースがいいとかなんとか他愛もない話をして、
やっぱりこうやって家に帰ってきて何でもいいから言葉を交わせる相手がいることはありがたいなあと思う。

彼らは、ホステルからホステルを渡り歩きながら暮らしているらしい。
探せば安い家もあるだろうに、なぜ皆フーテン暮らしをしているのか聞きたかったが、聞けなかった。
階下のバーから余ってしなしなになったフライドポテトの差し入れがあり、ジェリーが作ったという特製の赤いソースをたっぷりつけて、皆で分け合って食べた。やたらにうまかった。

仕事の前にまずは家探しである、私は朝から晩までネットで見つけたルームメイト募集情報を頼りに、
"500ポンド以下でいい感じのエリアにある"という条件だけを掲げ歩き回っていた。
自分の足で歩き回ると、なんとなくエリアごとに空気やいる人々が違うのが肌で感じられて面白い。
私がいる南東部、デトフォードは犯罪発生度マップが真っ赤っ赤になっているくらいいわゆる危険なエリアみたいだが、昼間に汚い格好でプラプラするぶんにはなんの問題もないように思う。むしろ下町感が心地よい(でも夜間の一人歩きはやめた方が良いと思われる) この辺もアリだなと思う。

そして北東部・いわゆるイーストロンドンの活気はとても好きだ。
奇妙な格好をした若い人々の魂がはじけているような、パチパチキャンディーみたいな街だなと思う。
もうイーストロンドンに絞って家探ししようかと思っていた矢先、私はウェストロンドンにあるノッティングヒルエリアの格安物件を発見し、速攻で電話のちすぐさま飛んでいく。
駅では、明日故郷に帰るというアルゼンチン人の女の子が待っていて、すぐに連絡くれてよかったと微笑んだ。
開口一番に「私、ロンドンにもう疲れたの」と言った。
女優を目指して10年ほどロンドンで頑張ってきたが、もう嫌になっちゃったのだという。
部屋は、ノッティングヒルのど真ん中にあるTHE高級住宅アパートの一室で、大家さんが使わない小部屋を若者に安価で貸しているのだそうだ。それもそのはず相場の約半分であった。
マリアという彼女は丁寧に私に部屋のドアノブ開ける時のコツとか、4つあるコンロの1つは壊れてるとかいう情報まで案内してくれて、それから私をノッティングヒル散策に連れて言ってくれた。
10年も住んでいるという彼女の英語は非常に訛っていて、これが仕事をもらえなかった原因なのかもしれない、という声に悔しさがにじんでいた。

ロンドンはいるだけで自分が何か特別な者になったような勘違いをさせてくれる街なの。
でも現実はね、高い家賃のために好きでもない仕事を朝から晩までしなきゃいけない。
そして週末の夜だけはみんな、
夢も、
何もかも忘れてロンドン最高なんて言ってる――そんな街なの。
皆、本当はわかってるんだよ。

数日前に引っ越してきたばかりの私にはなんだか憂鬱な話ばかりで一体なんと言っていいのかわからなかった、
がとりあえずお互い頑張ろうね、なんて言って別れた。
明日早速引っ越しが決まった。

いい家が決まったよというと宿の仲間たちがささやかなお祝いだと言ってビールを少し分けてくれた。
いつもニコニコしてしわくちゃのTシャツを着ていたおじさんポールも今日仕事が決まって明日出て行くんだと言っていた、今日はめでたい日だねと皆で大いに祝っていたら、なんだかここを出るのが辛い気分になってきた。
せっかく仲間ができたのに私はなんでここを急いで出ていかないといけないんだろう、今からノッティングヒルの家に電話してやっぱりやめますと言おうかな、という気持ちが一瞬よぎったが、グッと抑えて私たちはただ夜中まで一緒にビールを飲んだ。

翌朝、荷物をまとめてバスに乗りノッティングヒルに向かう途中電話を受ける――マリアであった。

急に気が変わった、もう引っ越すのやめたから今回はごめんなさい。
という話であった。

私はもう宿をチェックアウトしてバスまで乗っているのである。

困るけど……と呟いて、とりあえず電話を切る。
頼めばソファくらいには置かせてもらえるだろう、しかし私は人の情けに無料ですがるのが苦手である。
しかしやばいとにかくどっか今すぐ引っ越せるところを探さなければ、と地元のルームメイト募集掲示板を開く、すると私の目に「楽しい仲間たちと倉庫に住みませんか」という広告が飛び込んできた。

なんとルームメイトが計17人もいるということである。
何より今日から置いてもらえるとのこと、私は飛びついて電話をする。

今から来てもいいよとのことだったので、私はバスを乗り継いでこれからプラス1時間、進路を変えて北へと旅立つ――よっぽどやばいところでない限りもうとにかく決めてしまおう。
バスをおりて、閑散とした雰囲気の道を派手な格好の人々が行き交う、外にテーブルが投げ出されているようなカフェでは平日の昼間から各々酒を飲んだりPCを睨んだりしている人々でいっぱい、
そして家(倉庫)の外装を見たとき、
私の心は決まった、ここに住みたいと思った。
玄関から黒い巻き毛の犬がじっと私を見つめていた。

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