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谷崎潤一郎、、あるいはアンチエロティシズムの文学(3)(2022)

3 サディズムとマゾヒズム
 ジル・ドゥルーズは、『サドとマゾッホ』において、マゾヒズムを次のように解説している。

 マゾヒスト的自我の破壊は、表面的なものであるにすぎない。みずからごく弱々しいものだと告白する自我の背後に、驚くべき嘲笑が、ユーモアが、したたかな反抗が、勝利が身を隠していることだろう。自我の弱々しさは、マゾヒストが仕掛けた罠であり、その罠が、女を振りあてられた機能の理想的な点へと導くものなのだ。マゾヒズムに何ものかが欠けているとするなら、それはいささかも自我ではなく、超自我である。
 マゾヒズムとは、超自我がいかにして破壊され、またそれが何の手によるのか、そしてその破壊から何が生起するのかを説く一篇の物語である。聴き手はえてしてその物語を聞き違い、まさに超自我が死に瀕した瞬間に、それが勝利したと思いこみがちである。それは、およそ物語といわれるものにはつきものの、また物語に含まれる「空白」につきものの危険である。

 マゾヒズムは自我にとって与えられた理想である超自我を破壊する。近代における超自我はその理念や原理によって裏付けられている。マゾヒストはそうした理想が認めないことをあえて選ぶ。その世界は超自我にとっての理想の裏返しである。1990年代に三和出版からマニア誌『スレイブ通信』が刊行されている。それは「人権宣言」のパロディである「奴隷宣言」を表紙に掲げている。これが好例である。

 マゾヒズムは近代のみならず、前近代の発想も批判する。男性中心主義やパターナリズムを一切認めない。マゾヒストの求める主人は女性である。残酷な女性に奴隷として虐げられることに幸福を見出す。彼女は祐徳者ではない以上、その支配は徳地主義ではない。暴政である。マゾヒズムはこれまでの主要な政治理論をことごとく転倒する。

 それは、しばしばその対概念として用いられるサディズムと異なっている。サディズムも近代を批判するが、パターナリズムとしてそうする。この思想は自由で平等、自立した個人はお互いに主体として扱わなければならないとするカントの義務論を認めない。個人間には優劣がある。前者は後者のために、干渉・介入・教育しなければならない。理解力が低いのだから、責任を持って愛情のこもった暴力によるしつけも必要である。劣者は優者の言うことに従っていればよく、一体化することが目標だ。

 マルキ・ド・サドは、『悪徳の栄え』において、「十六通りのさまざまな方法で、縛られた十六人の娘」を殺し、その死骸を昼食用に「料理」して食べるロシア人ミンスキーの口を通じて、次のように述べている。

 そもそも女というものは、自然がわれわれ男の必要と快楽を満足させるために与えた家畜ではないかね? われわれの家畜飼育場の牝鶏より以上に、彼女たちがわれわれの尊敬を受けねばならぬという、どんな権利があるのだね? この二つのあいだに見られる唯一の違いは、家畜というものが従順なおとなしい性格によって、なんらかの意味でわれわれの寛容なあしらいを受けるに値するのに対し、女は許術、悪意、裏切り、不実といった永遠に根治しない性質によって、過酷と乱暴なあしらいしか受けるに値しない、ということではないかね?

 サドの作品の主人公たちは対象を侮辱、凌辱、虐待、暴行し、さらに、調理して食べる。それがサディズムであり、エロティシズムだ。動物には倒錯やフェティシズムがありえないから、「エロティシズムは、とらえられた影像が興奮した人間にとってはもののきわだった明瞭さをもって超脱していく点で動物の性欲とは異なる」(バタイユ『エロティシズム』)。エロティシズムは、聖と俗の二項対立の入れ替えを説くように、アイロニーである。「売春婦の堕落」には、バタイユによると、「人間生活は善であるから、堕落を受け入れることには、善に唾を吐きかけ、人間生活に唾を吐きかける決心が見られるのである」。サドの主人公たちは既存の道徳に対する敵意と憎悪を悪魔的な享楽に身を任せることによって露わにする。しかし、サドは教育的姿勢を取りながら、既存の道徳が虚偽だと主張するにすぎない。彼の近代批判はパターナリズムがトーテミズムにつらなるというものだ。トーテミズムは劣者が優者に一体化する究極だからである。「じっさい、この意識のたわごとは、他方がBと言えば一方はAと言い、そうしてまた他方がAと言えば一方はBと言って、自己自身との矛盾におちいることによって相互間の矛盾のうちにとどまる喜びを購うところの頑童たちの口論である」(ヘーゲル『精神現象学』)。

 サドの作品は、閉じられた時間と空間によって、構成されている。ノースロップ・フライの『批評の解剖』によると、物語、すなわちロマンスは実際に生きている人間を描くことを目的とはしない。サディズム的作品はアイロニー的傾向の強いロマンスであり、サディストは経験的世界を軽蔑、罵倒、唾棄し、悪魔的イメージを提示する。この世界は、少なくとも、書き手にとっては、望ましいものである。彼の作品にはそのイメージの再現機軸としてユングの言う女性原理と男性原理が登場してくる。サディストは女性の集合的無意識に潜在するアニムスとして振舞う。男性の集合的無意識に潜在する女性像であるアニマはアイロニーに特有な生贄であり、憎悪と恐怖の象徴である。サディストは、ロマンス構造にユング的アイロニーによって作品を修飾する。すべての要素は作者の願望充足のために奉仕しなければならない。

Too Much Blood
I want to dance, I want to sing
I want to bust up everything
To make some love
I want to dance, I want to sing
I want to bust up everything
And make some love

I can feel it in the air
Feel it up above
Feel the tension everywhere
There is too much blood
Too much blood, well alright

Everything you see
On the movie screen is tame
Everything's gonna be arranged

A friend of mine was this Japanese. He had a girlfriend in Paris. He tried to date her in six months and eventually she said yes. You know he took her to his apartment, cut off her head. Put the rest of her body in the refrigerator, ate her piece by piece. Put her in the refrigerator, put her in the freezer. And when he ate her and took her bones to the Bois de Boulogne, by chance a taxi driver noticed him burying the bones. You don't believe me? Truth is stranger than fiction. We drive through there every day.

I want to dance, I want to sing
I want to bust up everything
Be number one, yeah
I want to dance, I want to sing
I want to bust up everything
And have some fun

I can feel it everywhere
Feel it up above
Feel the tension in the air
There is too much blood, too much blood
Too much, yeah too much blood, alright

Did you ever see 'Texas Chain Saw Massacre'? Horrible, wasn't it? You know people ask me: it is really true where you live in Texas, it is really true what they do around there, people? I say, "yeah everytime I drive through the crossroads I get scared there's a bloke running around with a fucking chain saw. Oh oh no, gonna, oh no. Don't saw off me leg, don't saw off me arm." When I get to the movies, you know I'd like to see something more romantic, you know. Like 'An Officer and a Gentleman' or something. Something you can take the wife to, you know what I mean?

Yeah!

I want to dance, I want to sing
I want to bust up everything
And have some fun
I want to dance, I want to sing
I want to bust up everything
And make some love

I can feel it everywhere
Feel it up above

Feel the tension in the air
There is too much blood, too much blood
Oh yeah

Pretty ladies, don't be scared
Pretty ladies, don't be scared
Pretty ladies, don't be scared
Pretty ladies, don't be scared

Pretty ladies, don't despair
There's still so much love
Pretty ladies, don't despair
Too much, too much, yeah
Too much blood, too much blood
Too much too much blood, too much blood
Too much blood, too much blood...
(The Rolling Stones "Too Much Blood")

 他方、マゾヒズムは、アニマとアニムスが転倒しているように、文学上サディズムのパロディである。加えて、ロマンスは円環構造によって作者の願望が達成されるが、谷崎の世界は経年劣化していき、元に戻らない。それはサディズム的ロマンスのパロディである。

 フロイトは、『性に関する三つの論文』において、サディズム形成のプロセスを次のように述べている。

 小さな子供に性的なことなどはまだなにも理解できまいと大人は思いこんでいるので、そうした機会をあたえることがあるのだが、成人同士の性交を幼い年頃の子供にみせたりすると、子供たちはその行為を一種の虐待ないしは圧迫として、つまりサディズム的な意味に、とらないわけにはいかないのである。精神分析によると、幼少の時代にうけたこういう印象が、性目標をのちにサディズム的なものに変移させる素質をつくりだすのに、おおいに役立っていることが分かるのである。さらに子供たちは性交とはなんであるか、また彼らの考えているような結婚とはなんであるか、といった問題におおいに熱中して、この秘密の解答をたいていは、尿ないしは糞の排泄作用によって媒介されるある種の交わりに求めるのである。

 自伝的要素の強い『神童』や『鬼の面』、『異端者の悲しみ』といった作品群はサディズム出現のプロセスを描いたものである。谷崎は先天的にマゾヒストだったわけではなく、サディズム克服としてマゾヒズムを選びとっている。『少年』はサディズムの反転としてのマゾヒズムではない。サディズムの克服としてのマゾヒズムが展開されている。また、『饒太郎』の泉饒太郎の行動も、最終的に、マゾヒスト的である。『金色の死』を谷崎が認めないのは当然である。それは、マゾヒズムではなく、サディズムだからだ。

 サドを愛読していたロラン・バルトは、『恋愛のディスクール・断章』において、愛について次のように書いている。

 その朝、至急に「大切な」手紙を書く必要があった。なにか、計画の成否をかけた手紙だったのだ。ところがわたしは、そのかわりに恋文を書いている。それも、けっして投函することのない恋文を。世間に押しつけられた陰鬱な務めも、理性的なこまめさも、反射的な行動も、すべてを喜々として放棄したわたしは、輝かしい「義務」に、愛の「義務」に課せられた無益な務めの方をとる。ひとしれず狂気の振舞いに出る。おのが狂気のただひとりの証人になる。愛がわたしの内に露呈せしめているのは、エネルギーなのだ。わたしのおこないはすべて意味がある(だからこそわたしは生きることができる。愚痴をこぼさずに)。ただ、その意味というのが、把えがたい目的性のことなのだ。

 サド作品と違い、悪魔的イメージがまったくないけれども、ここにはそれとの共通性が認められる。マゾヒストには主人との共存が不可欠であるが、サディストの世界には、結局、彼しかいない。

Oh a storm is threat'ning my very life today
If I don't get some shelter
Oh yeah, I'm gonna fade away

War, children, it's just a shot away, it's just a shot away
War, children, it's just a shot away, it's just a shot away

See the fire sweepin' out very street today
Burns like a red coal carpet, mad bull lost its way

War, children, it's just a shot away, it's just a shot away
War, children, it's just a shot away, it's just a shot away

Rape! Murder! It's just a shot away, it's just a shot away
Rape! Murder! It's just a shot away, it's just a shot away

The floods is threat'ning my very life today.
Gimme, gimme shelter or I'm gonna fade away

War, children, it's just a shot away, it's just a shot away
It's just a shot away, it's just a shot away, it's just a shot away

Love, sister, it's just a kiss away, it's just a kiss away
It's just a kiss away, it's just a kiss away
It's just a kiss away, it's just a kiss away
(The Rolling Stones "Gimme Shelter")

 谷崎はマゾヒズム思想を作品に具現化、それは驚くべき転倒力を持っている。三島由紀夫は、『谷崎潤一郎論』において、谷崎のマゾヒズム文学について次のように評価している。

 究理的で献身的なサディストである代わりにわがままで意地悪なマゾヒストであることを、自分の文学的主題とした谷崎氏は、理論的には小説としてもっとも描きにくいこの主題を、逆用してもっとも有利な武器にしたのであった。現実を変要させて、自分の好むがままの形を現実にとらせ、そこへ自分の内面を投射して(自分は何の責任も問われずに)、対象をわがままで意地悪な存在だと夢みること。このエゴイスティックな没我と陶酔の一筋道を、氏はわき目もふらずに歩みつづけた。それは文学における反批評的なものの極致である。(略)
 谷崎氏にとって、究理的な人々にとってはあれほど困難な美は、いとも容易な問題だった。美を実現するには、現実を変容させればそれでいいのだ。そしていったん美が実現されたら、その前に拝聴して、その足を押しいただけばよいのだ。その上、さらに微妙な、さらに狡猾なメカニズムがこれに加わる。すなわち美に現実性を与えるためには、人形師が自ら作った人形にわが息を吹き込んで生命を与えるように、その美に対して自分の「わがままと意地悪」を賦与すればよいのであるが、同時に、相手のものとなった「わがままと意地悪」が、正にその属性に従って、相手から自分を遠ざけ、焦燥と錯乱をもたらし、かくて美にとって一等大切な要素である「不可測な距離」をも確保させることになるのである。
 (略)青年時代の氏は世紀末思潮や、キリスト教的道徳観の二元論や、いろんなものにわずらわされて、美の客体としての攻撃的な女体と、美の創造者としての被虐的な主体とを、正当に拮抗させるだけの状況を発見しえなかった。谷崎文学がいつも一面、状況の文学の性質を帯びるのは、主題の模索の代わりに状況の模索が、つねに制作の緊張を支えてきたからである。主題はむしろ容易であり、最初に発見されており、模索の必要はなかった。問題は状況の設定であり、夢がつぎつぎとその状況をむしばんで、完璧な状況の実現の彼方に置くのであった。そしてすべてのエロティシズムは、かかる状況の不可能にかかっているのではなかろうか? 芸術のエロティシズムに対する最終的な勝利は、状況の創造にあるのではなかろうか?

 谷崎の文学は登場人物と「状況」が違うだけで、『卍』にしても、『蓼喰う虫』にしても、『細雪』にしても、ほとんど同じような形式や構造を持っている。すでに述べた通り、長編作家の物語はだいたいそういうものだ。物語は構造が安定的なので、作者が願望を込めやすい。実際、『豊饒の海』を代表に、三島の長編は「主題」を具体化する物語である。ところが、谷崎は「主題」に関心がない。彼が描くのは物語世界が「状況」によって変容していく過程である。登場人物は、三島の主人公と違い、「主題」のために能動的に行動することなどなく、「状況」を受動的に是認する。

 マゾヒストは「状況」に促されて行動する。サディズムが「エロティシズム」であるとすれば、すでに指摘した通り、マゾヒズムは「アンチエロティシズム」である。サディストはパターナリズムなので、相手の意思など無視する。しかし、マゾヒストは受け身であるから、「状況」により浮遊する。行動の際には同意、すなわち契約を必要とする。谷崎の『鍵』や『台所太平記』がそれをよく物語っている。

 初老の大学教授と妻郁子は互いの日記を盗み読んでいる。二人に内面の自由はなく、近代の理念に基づく個人ではない。夫は妻に若い木村を近づけ、彼女に眠っている性的歓喜を覚醒させる。郁子は木村によって性的喜びを見出し、夫を嫌悪するようになる。しかし、夫は逆に妻に魅了されてその極限にのぼりつめ、卒中を起こし死んでしまう。相手の同意はマゾヒストを焦らし、その突出的空白に苦痛としての快感を覚えさせ、生を肯定させる。

 谷崎の『台所太平記』は家政婦の悪意に従うマゾヒストを描いている。家政婦は契約によって雇う側に従属的であるかに見えて、実は、その家庭の現状を知ることができるがゆえに、彼は彼女に従う。これはヘーゲルが『精神現象学』で語る「主人と奴隷」の寓話を思い起こさせる。しかし、「状況」を逸脱する行動などしない主人公はその従属に苦痛としての快感を覚える。

 三人称の語り、一人称の語り、語り手がその語りの中に入りこむ歴史と現代の混合形、書簡体、日記体など叙述形式は多様であるが、ほぼ一貫して谷崎はマゾヒズムを扱っている。作品の男性主人公は、近代日本文学の伝統的なその性格──消極的で優柔不断、意志薄弱──を持っているのみならず、はるかに徹底している。彼らは女性をめぐって同意、すなわち契約を結ぶ。谷崎にとって、恋愛は契約関係である。他方、女性たちは概して奔放で、気まぐれでさえある。『痴人の愛』のナオミはメリー・ピックフォードをモデルにし、『瘋癲老人日記』の立凧子はシンクロナイズド・スイミングをしている。モダンな彼女たちは男性に束縛されることなどない。

 谷崎は、『雪後庵夜話』において、永井荷風と比較しつつ、自身の女性の観について次のように述べている。

 私は、対女性の態度でも先生(=荷風)とは行き方を異にしていた。私はフェミニストであるが、先生はそうではない。私は恋愛に関しては庶物崇拝教徒であり、ファナチックであり、ラジカルで生一本であるが、先生は女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風であるが、私はそれに堪えられない。私は女は自分より上でなければ女とは思わない。(略)私は又外貌がどんなに美しくても、病的で、不健康で、体内が不潔そうに思える女を嫌った。美人ではあるが、過去にさまざまな経歴を持った、所謂海千山千の女を嫌った。ところで晩年の永井先生は、私の最も忌み恐れている階層の女に好んで近づき、彼女たちを無二の友とすることで世間に反抗した。私には先生のような反骨や社会的批評の精神がない。先生のものには「ひかげの花」のお千代や「墨東綺譚」のお雪のような女が現れるが、私の作品に出て来るのは「蘆刈」のお遊さんや「春琴抄」の春琴や「鍵」の郁子や、せいぜい「台所太平記」の女中たちのように若くて清潔で溌刺した女性ばかりである。

 マゾヒズムは、いくつかの作品で、女性の足に対するフェティシズムとして、象徴的に表わされている。谷崎のフット・フェティシズムはガラスの靴にあうシンデレラを求めるようなものではない。『刺青』の「この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足であった」という記述が告げているように、踏みつけられ踏みにじられる足を崇拝する。ドナルド・キーンの『谷崎潤一郎の文学』は、今日においても、最良の谷崎論の一つであり、彼もこの点に言及している。谷崎にとって、女性は、サロメのように、残酷でなければならない。「悪イ性質ノ女ノ方にヨケイ魅セラレル。時ニヨルト顔ニ一種ノ残虐性ガ現ワレテイル女ガアルガ、ソンナノハ何ヨリ好キダ」(『瘋癲老人日記』)。谷崎の作品の主人公は恍惚のディスプレーにほかならない。

 私の求めるものは、生き生きした眼と、快活な表情と明朗な音声と、健康で均斉の取れた体格と、そうして何よりも、まっすぐな長い脚と、ハイヒールの沓がぴっちり篏まる爪先の尖った可愛い足と、要するに、外国のスタアの肉体と服装とを備えたような婦人であった。
(谷崎『東京をおもう』)

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