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トリクルダウンという神話(2015)

トリクルダウンという神話
Saven Satow
Feb. 04, 2015

「『21世紀の資本』が成功したのは経済に関する知識を誰にも分かるように民主的な形で示して欲しい、という需要が大きかったからです」。
トマ・ピケティ

 2015年1月29日に来日したパリ経済学校教授トマ・ピケティは当惑したに違いない。日本でアベノミクスの支持者がトリクルダウンの成果を語っている。それはアメリカのキリスト教原理主義者が進化論を否定する主張をしている状況に似ている。と言うのも、トリクルダウンは60年代に失敗した政策だからである。

 29日、有楽町朝日ホールでシンポジウム「広がる不平等と日本のあした」が開催される。前半は教授による講演、後半がパネルディスカッションという構成である。西村康稔内閣府副大臣がパネリストとして政府の「雇用者100万人増」や「トリクルダウンの試み」などについてパワーポイントでデータを示し、「アベノミクスで格差が拡大しているというのはまったくの誤解」と説明する。

 教授は驚いたことだろう。これは山中伸弥教授に向かって日本政府高官が創造論を正しいとドヤ顔で語ったようなものだからだ。

 教授は、2015年1月30日配信『日刊ゲンダイ』の「『21世紀の資本』著者ピケティ氏がアベノミクスに”ダメだし”」によると、この狂信者に対して次のように反論する。

 「確かに日本の格差はアメリカほどではない。しかし、上位10%の富裕層の所得は国民所得全体の30~40%まで上がってきており、さらに上昇傾向にある。しかも、日本はゼロに近い低成長なのに上位の所得が増えているということは、実質的に購買力を減らしている人がいるということだ。おまけに累進課税の最高税率も低い。国際的水準で見ても、日本の過去の税率と比べてみても。つまり、トップの所得シェアが増えているのに以前より低い税率しか納めていないということだ」。

 31日の東大講演でもトリクルダウンは「過去を見回してもそうならなかったし、未来でもうまくいく保証はない」と改めて否定している。教授にすれば60年代に失敗した理論がなぜ日本でまかり通っているのかと逆に聞きたくなったことだろう。

 トリクルダウンの成否を検証する最もシンプルな方法は成長率とジニ係数の相関性を調べることである。成長が格差縮小につながっているなら、ジニ係数も小さくなる。教授の指摘する日本の場合、ゼロに近い成長でジニ係数が高くなっているのだから、トリクルダウンは起きていない。

 高齢者は資産格差が大きい。少子高齢化がジニ係数上昇の主因であり、日本は必ずしも格差拡大していない。そんな主張はピケティ教授の「r>g」によって反論される。資本収益率(r)は経済成長率(g)をつねに上回る。資産格差は不平等の拡大と固定化につながる。人口動態を理由に資産格差を放置することは不適切である。少子高齢化を言い訳にして、統計からは見えないが、実際にはトリクルダウンが起きているというのは詭弁である。

 教授はジョン・ロールズ以後の理論家であるので、格差自体を否定するのではなく、許容範囲があると主張する。しかし、トリクルダウンが成長の恩恵を許容できる格差へと導くことはない。

 1960年代、途上国の経済成長を促す戦略として「浸透効果(Trickle-Down Effect)」が世界的に支持される。トリクルダウン効果は経済的恩恵が富める層から貧しき層へと滴り落ち、成長が貧困削減につながるという考えである。けれども、恩恵は富裕層にとどまり、貧困層には十分に届かない。資産格差は成長の分配を阻害する。成長と貧困削減は相乗性がなく、弱い相関性が認められる程度である。結局、浸透効果は否定され、70年代には、「人間の基本的ニーズ(BHN: Basic Human Needs)」の援助に主要対象が移る。

 この戦略に基づき、世銀は貧困削減を目指す。ところが、80年代に入ると、途上国は。債務危機に陥り、財政が悪化する。政府規模は小さいほどよいという主張が国際的に広まる。また、90年代を迎えると、グローバル化が進展、外資が活動しやすいようにと途上国にも規制緩和が求められるようになる。輸入代替ではなく、輸出志向が途上国の成長戦略に取って代わる。

 こうした経緯を経て、世銀は貧困削減に的を絞る。それが「貧困層優先成長(Pro-Poor Growth)」である。成長は重要であるが、全体ではなく、貧困層の所得向上が優先でなければならない。ただ、これは浸透効果の二の舞になりかねない。

 貧困対策にもコストが要る。いかに援助されても、途上国自身が負担しなければならない経費も少なくない。無償援助で学校建設されるとしても、工事に従事する労働者や資材を運搬するトラックの運転手の賃金は途上国が払わなければならない。ところが、途上国の財政規模は小さい。

 政府が新税を導入したくても、人々の不信感が高いなど諸般の事情により実現は難しく、税収の自然増を待つしかない。そもそも富裕層が政治に影響力を持っているので、格差縮小に有効とされる累進課税や相続税などが不十分なままに放置されている。貧困対策の財源確保のために経済成長が欠かせない。しかし、それは富裕層が先により豊かになる可能性がある。

 優先成長は成長率以上に貧困層の所得上昇率が大きくなければならない。GDPが1%成長して、貧困層の所得が0.5%しか伸びていないとしたら、優先とは言えない。貧困層の所得増加率の加速化や貧困層所得シェアの上昇が現われなければならない。

 成長を分配するためには税制の整備が不可欠である。トリクルダウンに期待する政策は失敗する。途上国は言うに及ばず、先進国でも新自由主義の進展に伴い、税制が資産保有者に有利に変更されたため、格差が拡大している。このような状況の中、アベノミクスがトリクルダウンを持ち出して成果を強調するのは、創造論で進化論を否定するがごとく、狂信でしかない。

 安倍晋三首相は権力基盤強化のため、富裕層優遇の制作を続けている。アベノミクスは富裕層への課税強化を避ける政策で貫かれている。相続税の変更はあるものの、トリクルダウンが神話となると、格差拡大につながる政策ばかりだ。その理由は、教授の東大講演の一言から納得できる。「経済的な不平等は政治的な発言力の格差にもつながる。民主主義が脅威にさらされる」。
〈了〉
参照文献
高木保興、『途上国の開発政策』、放送大学教育振興会、2009年

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