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幼年期の想起─シャルル・ボードレールの『パリの憂愁』(3)(2006)

5 散文詩
 近代以前が欠乏の社会だったのに対し、近代資本主義は過剰をもたらしている。豊かさとは過剰さであり、群衆は過剰さの現われである。詩人は群衆の中で癇癪を破裂させる。と同時に、彼の癇癪はもう一つの過剰さによっても引き起こされる。保守的なブルジョアは表現へ過度な規制を当然視する彼にはそれに我慢がならない。癇癪は過剰の感情にほかならない。この散文詩集のタイトルはパリに満ち溢れる過剰さを意味している。

 こうした群衆の時代を従来からの韻律詩で表現することはできない。新たな表現形式が不可欠だ。フランスにおける伝統的な詩の定型は八音綴もしくは一二音綴の脚韻を踏む。ロマン主義以降、この制約は崩れていく。しかし、ロマン派の頃以上に過剰さや不調和が溢れる世界を節度ある調和的な形式で描写することは背理である。

 しかも、近代は神の死であり、それは詩の死を意味する。近代以前、世界各地で、詩は文学の頂点に君臨し、神の文学である。詩によって近代を捉えるのは、そもそも奇妙な試みである。貴族政から民主政へと文学も移行する必要がある。神の死により、民主政の為政者は超越的な神ではなく、自らを憲法という散文によって律しなければならない。近代は散文精神の時代である。

 彼は、そこで、散文による詩、すなわち「散文詩(poème en prose)」を書き始める。

 人間はひょっとすると不幸なものだ、幸いなるかな、欲望に身に虐まれる芸術家こそ!
 私の前にかくも稀にのみ姿を現したあの女、そして、あたかも夜の中を運ばれてゆく旅行者の背後へと遁れ去る、名残り惜しくも美しい物のように、かくも速やかに遁れ去ったあの女を描きたい思いに、私身を焦がす。あの女が姿を消してからすでになんと久しいことだろう!
 彼女は美しい、いや、美しいという以上だ。彼女は人を面食らわせる。彼女の中には黒い色が溢れている。そして彼女の喚びさます思いはすべて夜に似て奥深い。彼女の眼は神秘の漠と煌めく二つの洞窟、そして彼女の眼差は稲妻のように照す。それは暗闇の中の爆発だ。
 私は彼女を、黒い太陽に譬えよう、もしも光と幸せとを注ぐ黒い天体というものが考えられ得るのならば。だがそれよりも、彼女を見て月を思う方がいっそう自然だ、疑いもなく、その怖るべき影響の刻印を彼女の上に残した月を。と言っても、冷やかな花嫁に似た、牧歌の白い月ではなく、雷雨をはらんだ夜の底に吊るされて、走りゆく雲に小突きまわされる、不吉な、心酔わせる月だ。清らかな人々の眠りを訪れる穏やかでつつましい月ではなく、空からもぎ取られて、おびえ戦く草の上でテッサリアの〈魔女たち〉に手荒く踊りを強いられる、打ちひしがれ苛立った月だ!
 彼女の小さな額には、頑強な意志と、餌食をつよく求める心が宿っている。ところが、この不気味な顔、うごめく鼻孔が未知なるものと不可能なるものを吸いこんでいるこの顔の下の方には、火山地に奇蹟さながら咲き出た壮麗な一輪の花を思わせる、赤と白との、甘美な大きな口の笑みが筆舌に尽くしがたい優雅さを見せながらほころびている。
 彼女たちを征服したい、享受したいという欲求を喚びさます女たちもある。だがこの女は、その眼差しの下でゆっくりと死んでゆきたい欲望をいだかせる。
(「描きたい欲望」)

 散文詩を通じて、散文とは何かあるいは詩とは何か、詩と散文の境界は何かと問うのは歴史性が十分とは言えない。散文詩は近代という過剰さがもたらしたものだからだ。散文詩は過剰な言葉によって詩を不況に追いこむ。詩人にはありとあらゆることを描きたいという過剰な欲望がある。そのため、散文詩は寓話に接近する。彼は、「野蛮な女と伊達女」のように、ラ・フォンテーヌの寓話をモチーフとした散文詩を書いている。フランツ・カフカの短編小説が彼の散文詩の継承である。

 彼は、「どっちが本当の彼女か?」ではエドガー・アラン・ポーの詩をパロディ化しているように、既存の作品を巧みに用いている。同様に、散文詩という形式自身は彼の発明ではない。ただ、韻文に散文をさしはさむことはヴィクトル・ユゴーやテオフル・ゴーチェが試みているし、彼も試行している。意識的な散文詩はアロイジウス・ベルトラン(Louis Aloysius Bertrand)が『夜のガスパール(Gaspard de la nuit)』(一八四二)を発表している。この六四編の散文詩集は彼に影響を与えている。

 しかし、両者は異なっている。ベルトランが幽霊や悪魔などを扱いながらも、色彩豊かな描写に徹しているのに対し、彼は爆発音を響かせている。それはモンゴメリー・クリフトとマーロン・ブランドの演技ほどの違いがある。

 従来、『パリの憂愁』は『悪の華』の補完的書物と見なされることが多かったが、彼にとって、散文詩こそ最も表現としてふさわしい形式である。『悪の華』の作品群を発展させたのが散文詩にほかならない。過剰さを表現するには散文詩が最も適している。群衆は都市の中でさまざまに交錯する。それを描くには散文詩しかない。

 この詩集に収録された散文詩は書下ろしではない。すでに文芸誌に発表された作品をまとめたものである。これは新しい詩集の出版形式であり、現在でも主流となっている。雑誌はさまざまな作品や記事が入り混じる群れの媒体であり、単行本から雑誌へと発表の中心が移るのは時代の流れに沿っている。

 一九五〇年代のアメリカの若者がマーロン・ブランドを求めたのも、第二帝政同様、過剰さに支配されていたからである。未曾有の「ゆたかな社会(The Affluent Society)」(ジョン・K・ガルブレイス)である一方で、マッカーシズムの嵐が吹き荒れ、表現は著しく制限される。極端な物質主義と極端なジンゴイズムが共存する。パックス・アメリカーナは過剰さに覆われている。デイヴィッド・リースマンはそんな社会の人々を「孤独な群衆(The Lonely Crowd)」と呼んでいるが、それは彼の散文詩「群衆」で描かれた群衆そのものである。若者は、鬱憤を晴らすように、癇の強いマーロン・ブランドの真似をする。

 彼は、マ-ロン・ブランドが一九五〇年代以降の演技においてそうであったように、近代詩の源泉となる。ステファヌ・マルラメはボードレールの意義を最も踏まえた詩人の一人である。彼は散文詩を発展させ、文学そのものの根拠を問う批評精神に基づき、「批評詩(le Poème critique)」、ないしは「批評詩編(les poèmes critiques)」を考案する。こうした詩と批評を一体化させる試みは卓見である。

 ただ、マラルメは過剰さではなく、余白によって散文詩を生かそうとしている。それは、確かに、散文詩のその後を暗示している試みである。

 ボードレールの死後、一八八〇年代以降、定型詩の脚韻や音綴の規則を放棄した自由詩が主流になっていく。過剰による不況を手なずけるため、自由詩が選ばれる。

6 意のままに再び見出された幼年期
 フランスの詩人ジャン・モレアス(Jean Moréas)は『象徴主義宣言(Manifeste du symbolisme)』(一八八六)を発表し、彼を象徴主義の先駆的な詩人と見なしている。これは、元々、一八八六年九月一八日付『フィガロ・リテレール』紙に掲載されたジャン・モレアスの記事「象徴主義(Le symbolisme)」であるが、見出しに「ある文学的宣言(Un manifeste littéraire)」と付けられたため、慣例となっている。ただ、その定義は明確ではない。彼によると、文学はロマン派から高踏派と円環的に進化してきたが、次に登場した同時代的文学潮流が象徴主義である。それは「イデー(Idée)」に感覚的形態を付与し、事物と「根源的イデー(Idées primordiales)」の神秘的な親近性を顕在化させる。象徴主義は不可知なもの、あるいはまだ見ぬものを表現する文学運動ということになる。

 彼はまだ見ぬ近代の先さえ表現しようとする。「天才」は、『現代生活の画家』によると、「意のままに再び見出された幼年期」である。それはモデルニテの克服にほかならない。
 彼のある種の後継者であるフリードリヒ・ニーチェはその点を明確にしている。散文詩『ツァラトゥストゥラはかく語りき(Also Sprach Zarathustr)』(一八八五)において、神の死を説き、それに伴う精神の三段の変化を述べている。近代以前、神の時代の精神は「駱駝」であり、神なき時代の精神は「獅子」である。その後に訪れる「超人」の精神は「幼子」にほかならない。

 彼はこの超人の時代を見据えている。けれども、幼年期が芸術の源泉であるとしても、それ自身がモデルニテの超克になるわけではない。

 いつも酔っていなければならない。一切はそこにあり、それこそが唯一の問題だ。あなたの両肩を押しくだき、あなたを地面へと圧し迫める、〈時間〉の厭わしい重荷を感じないために、休みなく酔っていなければならない。
 だが何に? 葡萄酒に、詩に、あるいは美徳に、あなたの好むがままに。だが酔いたまえ。
 そして、もしも時たま、とある宮殿の階の上で、とある濠の縁の草の上で、あなたの部屋の陰気な孤独のなかで、統帥がすでに衰えもしくは消え失せて、あなたが目覚めるならば、説いたまえ、風に、波に、星に、鳥に、大時計に、逃げゆくすべてのものに、嘆息するすべてのものに、流転するすべてのものに、唄うすべてのものに、口をきくすべてのものに、問いたまえ、いま何時であるかと。すると風は、波は、星は、鳥は、大時計は、あなたに答えるだろう、「酔うべき時刻だ! 〈時間〉に虐げられる奴隷とならないために、酔いたまえ、絶えず酔いたまえ! 葡萄酒に、詩に、あるいは美徳に、あなたの好むがままに」と。
(「酔いたまえ」)

  覚醒するために酩酊するのであって、酔い自身に興味があるわけではない。同様に、芸術も幼年期そのものではなく、想起される幼年期に基づいている。思い起こすのが困難であればあるほど、それを意のままに再び見出すことは芸術を生み出すことにつながる。

 この生は、病人のめいめいが寝台を代えたい欲望に取り憑かれている、一個の病院だ。せめてストーブの正面で苦しみたいと思っている者もあれば、窓のそばなら癒るだろうと思っている者もある。
 私は、今いるのでない場所へ行けば、かならず具合がよくなるだろうという気がするのであり、この引越しの問題は、私が絶えず自分の魂を相手に議論する問題の一つである。
 「答えてくれ、わが魂よ、冷えてしまった哀れな魂よ、リスボンに住むのはどうだと思うかね? 陽気はきっと暖かだし、君もそこなら蜥蜴のように精気撥剌としてくるだろう。この都市は水のほとりにある。大理石で建てられていて、住民は植物を忌みきらうことははなだらしく、あらゆる樹木を引きぬいてしまうとか言うことだ。これこそ君の好みに適う風景ではないか。光と鉱物と、それを映すために液体、それだけで出来た風景!」
 私の魂は答えない。
 「きみは、運動するものを眺めながら休息するのが大好きだから、オランダへ行って住みたくはないか、人を浄福につつむあの土地へ? きみがよく美術館でその画像を見て感嘆したこの国でなら、ひょっとしてきみも気晴らしができるだろう。帆柱の森や、家々の足もとに繋がれた船などの好きなきみは、ロッテルダムはどう思うかね?」
 私の魂は無言のままだ。
 「バタヴィアの方がひょっとしてもっときみの気に入るだろうか? それともあそこでは、ヨーロッパの精神が熱帯の美しさと結び合っているのが見られるだろうし」
 一言も返ってこない。――私の魂は死んだのだろうか?
 「するときみは、きみの病の中でしか居心地よく感じないほどに、麻痺し果ててしまったのか? いっそそれなら、〈死〉の類縁物である国々へ逃げて行こうではないか。――話は決まった、あわれな魂よ! 荷造りをして、トルネオへ旅立つとしよう。もっと遠く、バルティック海の最果てへ行こう。できることなら、生を離れることさらに遠いところへ。極地に住みつこうではないか。そこでは太陽は斜めにしか地を掠めず、光と夜の緩慢な交代は変化を抹殺し、虚無の半分ともいうべきもの、単調さを増大させる。かの地でわれわれは、闇黒の長い沐浴にひたることができるだろう、そしてその間、われわれの気晴しのために、北極光は時おり、〈地獄〉の花火の反映のような、その薔薇色の光の束を投げてよこすだろう!」
 ついに、私の魂は爆発し、そして賢明にも私にこう叫ぶ、「いずこなりと! いずこなりと! この世の外でありさえすれば!」
(「ANY WHERE OUT OF THE WORLD  いずこなりとこの世の外へ」)

 この対位法の詩は冒頭の「異邦人」の変奏曲である。詩人は彷徨った後、最初の記憶、すなわちこの詩集における幼年期を再び見出す。それは天才のなせる技にほかならない。

 彼は脳軟化症により失語症となり、幼年期のように、二、三の単語を伝えられる以外外は、ただ反応するだけになってしまう。経済的にも困窮した彼だったが、入院した病室には、友人たちが見舞いに訪れる。人の区別もできなくなり、「痴呆の翼が頭上を羽ばたき」(ジュル・ベルトゥ=アルフォンス・セシェ『ボードレールの生涯』)、一八六七年八月三一日、彼は「この世の外」に出て行く。

 その時、彼の頭脳を熟する太陽の下、〈死〉の強烈な香りのつくる雰囲気の中で、彼の耳にしたものは、腰掛けている墓石の下に囁く一つの声だった。そしてその声はこう言った、「汝らの標的とカービン銃も呪われてあれ、死者たちとその神聖な休息とを顧みることのかくもすくない、騒々しい生者たちよ! 汝らの野心は呪われてあれ、汝らの打算も呪われてあれ、〈死〉の聖域のかたわらに来ては殺す技を究めようとする、心焦れる人間どもよ! もしも汝らにして、賞を得ることのいかに易く、的を射ることのいかに易く、また〈死〉を除いては一切のいかばかり虚無であるかを知るならば、孜々営々たる生者たちよ、汝らもかくばかり己が身を労しはせぬであろうし、久しい前から〈的〉を、厭うべき人生の唯一の真の的を射当てた者たちの眠りを、かくもしばしば乱しはせぬであろうに!」と。
(「射撃場と墓地」)

 彼の詩を幼年期として再び見出そうとしている。
〈了〉
参照文献
シャルル・ボードレール、『パリの憂愁』、福永武彦訳、岩波文庫、一九六六年
シャルル・ボードレール、『ボードレール全集』Ⅳ、阿部良雄訳、筑摩書房、一九八七年
シャルル・ボードレール、『ボードレール全詩集』Ⅱ、阿部良雄訳、ちくま文庫、一九九八年
シャルル・ボードレール、『ボードレール批評』Ⅰ~Ⅳ、阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、一九九九年
阿部良雄、『群衆の中の芸術家 ボードレールと十九世紀フランス絵画』、中公文庫、一九九一年
阿部良雄、『シャルル・ボードレール 現代性の成立』、河出書房新社、一九九五年
河盛好蔵、『パリの憂愁 ボードレールとその時代』、河出書房新社、一九九一年
鈴木道彦、『プルーストを読む―「失われた時を求めて」の世界』、集英社新書、二〇〇二年
出口裕弘、『フランス第二帝政の詩人たち ボードレール・ロートレアモン・ランボー』、河出書房新社、一九九九年
福井憲彦、『近代ヨーロッパ史』、放送大学教育振興会、二〇〇五年
福永武彦、『ボードレールの世界』、講談社文芸文庫、一九八九年
渡邊守章=柏倉康夫=石井洋二郎、『フランス文学』、放送大学教育振興会、二〇〇三年
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デイヴィッド・リースマン、『孤独な群衆』、加藤秀俊訳、みすず書房、一九六四年
カール・マルクス、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』、村田陽一訳、大月国民文庫、一九七一年
ジュル・ベルトゥ=アルフォンス・セシュ、『ボードレールの生涯』、斎藤磯雄訳、立風書房、一九七二年
ヴァルター・ベンヤミン、『ヴァルター・ベンヤミン著作集』第6巻、川村二郎・野村収訳、晶文社、一九七五年
ヴァルター・ベンヤミン、『パサージュ論2 ボードレールのパリ』、今村仁司他訳、岩波書店 、一九九六年
ジャン=ポール・サルトル、『サルトル全集』第16巻、佐藤朔訳、人文書院、一九七六年
ジョルジュ・プーレ、『炸裂する詩 あるいはボードレール/ランボー』、池田正年他訳、朝日出版社、一九八一年
フランツ・カフカ、『カフカ短編集』、池内紀訳、岩波文庫、一九八七年
フランツ・カフカ、『カフカ寓話集』、池内紀訳、岩波文庫、一九九八年
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J・A・ヒドルストン、『ボードレールと「パリの憂愁」』、山田兼士訳、沖積舎、一九九一年
フリードリヒ・ニーチェ、『ニーチェ全集』第9・10巻、吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫、一九九二年
マルセル・レイモン、『ボードレールからシュールレアリスムまで 新装改版』、平井照敏訳、思潮社、一九九五年
バーバラ・ジョンソン、『詩的言語の脱構築 第二ボードレール革命』、土田知則訳、水声社、一九九七.年
アンリ・トロワイヤ、『ボードレール伝』、沓掛良彦訳、水声社、二〇〇二年
クロード・ピショワ=ジャン・ジーグレル、『シャルル・ボードレール』、渡辺邦彦訳、作品社、二〇〇三年

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