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自立と共生(2007)

自立と共生
Saven Satow
Oct. 05, 2007

「親愛なる神は細部に宿り給う」。
アビ・モーリッツ・ヴァールブルク

 福田康夫内閣総理大臣は、2007年10月1日、そのメリハリのない演説の中で、「自立と共生」というフレーズを繰り返し使っていることが唯一印象に残っている。総裁選の頃から、彼はこれを政権の理念として掲げている。

 もっとも、この「自立と共生」は小沢一郎民主党代表が20年ほど前より政治理念として用いている。3日の代表質問の際に、鳩山由紀夫民主党幹事長は、それを理由に、福田首相に「使わないで頂きたい」と注文をつけている。

 政治家が他の人の考案したフレーズを勝手に借用するというのは、決して珍しいことではない。小泉純一郎元首相の唱えた「構造改革」も、もともとは、イタリア共産党が1950年代に選択した路線方針である。日本では、江田五月参議院議長の父で、「江田ビジョン」で知られる故江田三郎氏がこの政策論を支持している。江田元判事補はプライオリティの件で時の総理を糾弾してもよかったかもしれない。

 おそらく、小泉元首相の「構造改革」は「日米構造協議(Structural Impediments Initiative: SII)」から拝借したと推測される。1989年から1990年までの間、計5次開催され、93年に「日米包括経済協議」と改称、94年から「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」(The U.S.-Japan Regulatory Reform and Competition Policy Initiative)」、いわゆる「年次改革要望書」が始まっている。この頃の「構造改革」の意味は貿易摩擦解消である。従来、日米間の貿易問題は個別品目で行われていたが、円高ドル安にもかかわらず、悪化する貿易摩擦のため、政治的な解決が求められている。検討するに値するものもあるけれども、中には、都市部のオフィス・ビルの賃貸料の低下や公共事業の拡大など国内問題にまで口を挟み、代理人による大リーガーのインセンティブ交渉の印象さえある。大店法の規制緩和がアメリカ側にとっての最大の成功例の一つである。当時のアメリカ議会はすべて日本の経済構造のせいであり、それを改革すれば、状況が改善すると盲信している。こうした歴史を思い出し、年次改革要望書と小泉政権の政策との共通点を認識すると、元首相の「構造改革」が何を目指していたのかは明確である。

 プライオリティはともかく、「自立と共生」が今日における最重要の政治概念に含まれることは間違いない。けれども、政治家やメディア・タレント、言論人によるその使い方を聞いてみると、曖昧だったり、誤解していたりと思うこともしばしばである。

 自立は依存しないことではない。自立を非依存と考えてしまうと、不毛な議論に陥ってしまうのは巷の夫婦喧嘩からも明らかである。

 「お前がひとりで子育てするんは当たり前やないか。俺が会社行かんかったらどうなる。お前、俺の収入に依存して自立してヘんやろ」。「何言うてんの。あんたこそ、私がこの子をひとりで育ててるから、『会社会社』って言ってられるんやないの。あんたのほうが私に依存して自立してないやないの」。

 「自立と共生」をめぐって二人の男性政治家がキャッチフレーズとしているわけだ。しかし、これはフェミニズムが政治に提起したことである。

 フェミニズムは「男性中心主義」に対する批判、「ジェンダー」をめぐる規範への問題意識で知られているが、たんなる女性の解放運動や素朴な男女同権論ではない。近代の自由主義の延長線上にある思想であり、そのスローガンは「個人的なことは政治的なことである(The personal is political)」である。全般的に見て、政治におけるその最大の意義は公私の区別の再考を促したことだ。従来、私的な領域に属すると思われていたことが、実は、権力関係が生み出した公的な問題であり、政治的に解決しなければならないと明らかにする。

 フェミニズムは生物学や哲学、言語学、心理学、社会学、文化人類学など広範囲の研究成果を積極的に吸収している非常に多様な思想であるから、簡単に要約はできない。今述べた意義に関して異論があるとしても、当然のことだ。先のスローガン自体にも批判を向けるフェミニストもいる。しかし、今回のような「意義」という観点からの議論において、その諸説の論争に囚われることは必ずしも建設的ではない。

 公的権力が私敵領域に無断で入りこむことは許されないというのが近代の基本原理の一つである。信仰の自由はこれによって保障されている。警察も民事不介入を原則として、私的な領域である家庭には干渉しない姿勢をとってきている。しかし、それに縛られるあまり、警察は家庭内暴力や幼児(児童)虐待解決介入には消極的に臨んできたことにより、無数の被害者や犠牲者を出してしまっている。フェミニズムはこの公私の区別に再検討を提案する。

 高齢者の介護を例にとって見よう。かつては高齢者の介護は私的な問題として各家庭に任されている。政治は個別の家庭の問題をとり扱うことはしない。あくまでもある程度の規模と範囲を持った社会的な関心事を課題とする。しかし、今日では高齢者の介護は公的な問題である。政治的な重要課題の一つだ。

 高齢者の介護をこれまで最も担ってきたのは、家庭の中では、嫁である。今でもそうだろう。息子である夫は外へ働きに出ており、在宅している時間は少なく、老いた親を十分に面倒見ることができない。しかし、これは各家庭の事情と言うよりも、実際には、政治・経済・社会の構造がもたらした状態である。高齢者の介護を嫁だけがするという状態は、嫁にとって、自分で意思決定したわけではない。選択肢は他には存在しない。この構造が変化すれば、当然、高齢者の介護のあり方自体も変わらざるをえない。顕在化している公私の区別は、こうした構造変化すれば、変動する。フェミニズムが訴える通り、個人的なことに政治的なことが潜んでいる。

 この権力関係がいわゆる女性の社会進出を妨げている以上、自立も権力関係の編み直しという観点から捉えなければならない。複数の選択肢を考えた上で、自分で決めたことであるなら、納得がいく。

 自立とは自己による意思決定にほかならない。初めて受け入れた女性社員たちがトイレを男女別別にして欲しいと会社に要望があったとしても、この主張を「昇進では差別するなと言っておきながら、男女平等と矛盾するんじゃないのか」とは考えないだろう。自身による意思決定は尊重されるべきである。

 ちなみに、これは高校の家庭科で教えている定義なので、メディアに出るのであれば、高校生に笑われないように理解はしておくべきだろう。

 女性だけに限らず、障害者や病人、高齢者といった他の社会的弱者にもこの観点から自立を考えなくてはない。弱視の人が、東京駅構内で、横浜方面に行くにはどうしたらいいかと人に尋ねたとする。弱視だから、案内図も表示もよく見えない。この行為をもってその人は自立していないという声はないだろう。自分で意思決定するための情報が乏しいから、誰かに聞いているにすぎないからである。

 このように、自己による意思決定をするには、政治的・経済的・政治的支援が不可欠である。小泉政権下で成立・施行された障害者自立支援法における「自立」も「支援」も有名無実であり、イカサマですらある。

 自立には支援が必要である。それを用意することが共生であろう。共生は自己による意思決定が十分にできる権力関係の状態にほかならない。

 さらに、この自立と共生の考え方は政策決定自身にも向けられることでもある。公共事業などの政策決定において、意思決定のプロセスに当事者が参加できないという不満が見受けられる。自立と共生は日本の政治全体に求められていると言っても過言ではない。

 「自立と共生」を政治的に実現するには、自己による意思決定尊重できるかが第一歩である。そのためには、政治家にミクロな眼差しが欠かせない。暮らしの中にある小さな政治を見逃してはならない。
〈了〉
参照文献
ルチアーノ・グルッピ、『トリアッティとイタリアの道』、大津真作訳、合同出版、1978年
塩田潮、『江田三郎-早すぎた改革者-』、文藝春秋、1994年
大越愛子、『フェミニズム入門』、ちくま新書、1996年
岩田澄江他、『NHK高校講座家庭総合』、日本放送出版協会、2007年
小林良彰他、『新訂政治学入門』、放送大学教育振興会、2007年

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