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自己目的化する手段(2013)

自己目的化する手段
Saven Satow
Mar. 06, 2013

「目的は手段を正当化する。何かが目的を正当化する限りは」。
レフ・トロツキー

 夏目漱石が『現代日本の開化』(1911)において近代化の輸入を「皮相上滑り」と批判したことは知られています。彼のような本質的に思考する知識人にとって、同時代人の西洋理解が薄っぺらなものに見えてならなかったでしょう。この「皮相上滑り」は近代日本の特徴を示すキーワードの一つとしてよく引用されます。

 明治20年代、西洋から写実主義が伝わると、文学者はそれを積極的に取り入れます。尾崎紅葉率いる硯友社がその代表です。けれども、彼らは着物の縞柄や髪の結型を精緻に描写するだけです。

 写実主義は新たに出現した近代社会をいかに捉えるかという抽象的な目的を具体化する方法の一つです。写実主義の目的に照らし合わせるなら、着物の縞柄や髪の結型を詳細に描くことはそれに当たりません。その描写から近代社会がどのようなものであるか認識することは困難です。なるほど「皮相上滑り」です。

 一方、西洋の写実主義からは近代性がよく伝わってきます。オノレ・ド・バルザックの『ゴリオ爺さん』(1835)に有名な食事のシーンがあります。その詳細な描写から、ゴリオが近代的ブルジョアではなく、根っからの前近代的な小商人《こあきんど》であることがわかります。読者は、彼のような人物がその時代では成功し得ないことを通じて、近代社会を理解するのです。

 バルザックの筆致は目的を具体化するための手段です。それに対し、硯友社は方法を目的から切り離し、技術として認知しています。文章を読んでも、何のための精緻化なのかわかりません。対象を詳細に描写することが写実主義だと把握し、方法を目的化させているのです。「皮相上滑り」はその発想を切り離して輸入された方法の自己目的化した状態です。

 硯友社の写実主義に対する誤解は、その後、指摘され、彼らの文学は流行遅れとなっていきます。けれども、近代小説の目的は近代社会を捉えることであり、方法はそのために編み出されるものだという認識は浸透しません。

 典型例が私小説です。私小説家は「あるがまま書く」を手段ではなく、目的と認知しています。方法が自己目的化しているのです。全体の構成をあまり考えずに、身辺匙を事細かく記しています。部分を詳細に記述すれば、おのずと全体もリアルになるという信念が読み取れます。部分という具体性に敏感である反面、全体の持つ抽象性には鈍感です。

 もちろん、近代社会をいかに描くかという目的に向き合った作品もあります。芥川龍之介の『或る阿呆の一生』(1927)の「五 我」は、短編ながら、近代社会の本質を捉えています。

 彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの卓子に向ひ、絶えず巻煙草をふかしてゐた。彼は余り口をきかなかつた。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。
「けふは半日自動車に乗つてゐた。」
「何か用があつたのですか?」
 彼の先輩は頬杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。
「何、唯乗つてゐたかつたから。」
 その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。
 そのカツフエは極小さかつた。しかしパンの神の額の下には赭い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。

 前近代社会では身分や職能によって髪形や服装まで決められています。行動の自由も制限されています。しかし、近代社会は、自由で平等、独立した個人によって成り立っています。人は自由意思で行動できるのです。「唯乗つてゐたかつたから」、「半日自動車に乗つてゐた」ことも近代社会ならではの出来事です。前近代では許されません。それは「神々に近い『我』の世界」で、新たな「痛み」と「歓び」を人に味わわせることになるのです。近代社会に対する芥川の認識の鋭敏さを讃えずにはいられません。

 輸入された思想をその発想から切り離して自己目的化した手段として扱えば、すぐに使えます。けれども、再検討する際の回路が失われていますから、行きづまった時は次の輸入を待つほかないわけです。

 現在に至るまで日本の文学の一つの傾向として、方法を自己目的化して、細部にこだわることが認められます。それは具体性指向と言い換えられるでしょう。文学はある個別的・具体的な事例を扱いながら、読者に一般的・抽象的な問題を感じさせることができます。ところが、多くの日本の作家は抽象性の認知が弱く、具体性に固執しているのです。全体=抽象性=目的を軽視し、部分=具体性=手段にとらわれています。

 現代社会は分業化が進み、人々は自分のしていることが何に貢献しているのか見えなくなっていると認識したとします。それを具体化する場合、どのように社会が不可視であるかを描く方法が必要になります。抽象性を具体化する方法の考案というわけです。しかし、社会が見えなくなっているから、与えられたことを懸命にこなす姿を描くのでは、抽象性の目を閉じ、具体性に固執しているだけです。それは戦術的な対処であって、戦略が欠けています。

 ある特殊な職業を主人公にその世界を事細かに描く作品が多く出現することになります。特殊なスキーマを持った人から認知された現代社会像ではなく、人知れず勤労している姿は尊いという物語として自己完結していることも少なくありません。そうした美徳は現代社会どころか、前近代でも認められます。

 こうした傾向は文学に限らないでしょう。それを端的に示すのがいわゆるガラパゴス化です。方法にはそれを生み出す発想があります。閉鎖系で技術が自己目的化すると、ガラパゴス化が生じます。閉じられていますから、攪乱するものが入ってこないので、均質化します。お互いの顔が見える具体的な世界ですので、抽象的な目的を共有する必要がありません。方法が自己目的化し、本来それが持っていた発想から離れて、進化していくのです。ディテールにこだわりすぎるあまり、小さいものはともかく、一定規模以上になると、全体としては理解しにくいものが生まれることもしばしばです。

 断片化指向は、技術のみならず、テレビの討論番組で目にするように、議論でも見受けられます。全体を把握することをおろそかにしますから、議論が細部に偏重し、小さくなりがちです。具体的なため、体験や直観に依拠して語ることが多く、目的や理念が見失われ、不毛な帰結に至ることもしばしばです。また、都合のいい部分だけを取り出し、他との整合性を無視して、恣意的に全体にまで拡張する強弁もあります。

 さらに、抽象性の認識が貧弱ですので、復古主義的な大言壮語がヴィジョンと勘違いされることもあります。これらはすでに流布していますから、体験や直観だけで理解できるのです。抽象的理念と言うよりも、主観的信条です。

 人はそれぞれ個別的・具体的な事情を抱えています。協同するには一般的・抽象的な理念・目的が必要です。ガラパゴス化した技術が広く共有されるには、それが立脚する理念・目的が要るのです。その場合、具体性志向ですから、新たな理念を提示することは不得手ですので、既存のものを利用することになるでしょう。画期的な理念を提案できる人材はいると思われますが、他がそれを理解できるとは限らないからです。

 初音ミクの成功が好例です。それは「カスタマイズ」という共有理念に基づいていたからです。初音ミクには細部にこだわった技術が満載されています。けれども、もしカスタマイズのできないレディメードで公開していたら、世界的に受容されることはなかったでしょう。海外ではネットでゲームを提供する際、基本アーキテクチャだけにして、後はユーザーが自分の好みに合わせてカスタマイズするのが標準です。

 あれからもうすぐ2年が経ちます。3・11によって脱原発のうねりが社会で大きくなっています。おそらく今後の日本社会の将来像として最も共有され得る理念でしょう。中には、それを抽象的と批判する人がいます。しかし、理念は抽象的だからこそ広く共有できるのです。理念にとらわれず、現実主義でいくべきだという意見は往々にして現状追認でしかありません。理念を欠く技術は自己目的化するものです。それが時として社会に何をもたらすのかは3.11から学んだ教訓の一つなのです。
〈了〉
参照文献
バルザック、『ゴリオ爺さん』、平岡篤頼訳、新潮文庫、1972年
『現代日本文学大系43芥川龍之介集』、筑摩書房、1968年
『夏目漱石全集10』、ちくま文庫、1988年

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