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【『逃げ上手の若君』全力応援!】㉝関東庇番について調べてみた。そして、北条時行VS足利直義の鎌倉愛対決へ…?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。  鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……? 〔以下の本文は、2021年10月3日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 私の所属している「南北朝時代を楽しむ会」には、足利尊氏と直義兄弟が大好きな歴史ファンがたくさんいます。『逃げ上手の若君』第33話でその正体が明らかになった「関東庇番《ひさしばん》」の新たな登場人物たちについて、会の代表や会で知り合った友人にいろいろと教えてもらうことができました。
 ーー価値観が多様化する現代において、持つべきものは、コアな興味・関心を共有できる友であるなあと、しみじみその大切さを感じる今日この頃です。

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 さて、「庇番」とはどのような役割を持つ組織だったのでしょうか。

 鎌倉時代の職名。正嘉1(1257)年に設けられ、将軍の廂御所に番を定めて宿直、警固を任務とした。10人を1番として6番あり、文応1(60)年には1番の任数を12人とした。建武新政府も鎌倉の征夷大将軍成良親王のもとにこの職をおいた。〔ブリタニカ国際大百科事典〕

 (階段に座って仕事の指示をする直義のセリフのひとつに「成良宮殿下の新御座所の設計図は」というものがあります。)

 では、新キャラクターについて、教えてもらったことや調べたことを以下に記していきたいと思います。

 まずは、利発そうな少年・斯波孫二郎ですが、孫二郎は幼名で、のちの斯波家長だということでした。
 家長は後年、尊氏と袂を分かった後醍醐天皇側の最強の青年武将(しかも公家)・北畠顕家《きたばたけあきいえ》と東北で対決したり、鎌倉にて尊氏の息子・義詮《よしあきら》を補佐する鎌倉府執事として活躍したりします。しかも、一説に享年十七歳とあるので〝そんなに若くてこんなにも重役を果たしていたの!?〟と驚きですね。

 なお、家長については、南北朝時代を楽しむ会で制作を監修しているという「ゆっくり南北朝チャンネル」のこちらの動画がわかりやすかったです(家長への愛も感じられました)。

【ゆっくり歴史】斯波家長!強くない武将!?北畠顕家のライバル【南北朝時代(日本の歴史)】

https://www.youtube.com/watch?v=NQfWVkIahw4&t=7s

 次いで、庇番一番頭人の渋川義季《しぶかわよしすえ》ですが、渋川氏は足利一門で、義季の姉は足利直義に嫁いでいるということです(ちなみに、上杉憲顕のセリフに「風紀にうるさい直義様」とありますが、残されている記録の様々な面よりそれがわかります。『太平記』には、直義が女性関係にもかなり潔癖であったことが記されてもいます)。
 そして、サーフボードは巨大な人斬り刀であったという驚きのチャラ男くん、岩松経家《いわまつつねいえ》ですが、新田氏の一族であるということです。新田氏とその一族については、このシリーズの第27‐(2)回で紹介しました。新田の持つヤ〇キーなイメージを反映してのキャラであろうかと思いました。

 『日本中世史事典』の「渋川義季」の項目には、建武元年(1334)三月に「北条高時の一族を奉じて極楽寺口から鎌倉に侵入した渋谷氏・本間氏らを撃退」とあります(今回のエピソードですね)。そして、翌年の時行らの軍を彼らは迎え撃つことになりますが……ここから先はまだ触れないでおきましょう。

 最後に、上杉憲顕《うえすぎのりあき》ですが、尊氏・直義兄弟の従兄弟にあたるそうです(足利兄弟の生母は上杉氏の出身です)。前回、直義に最後まで従った桃井直常《もものいただつね》について触れましたが、上杉憲顕もその一人です。クールながらも豪胆な智将の印象が強かったのですが、松井先生の憲顕は新鮮で、今後の描かれ方が楽しみな一人です。

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 「何より」「鎌倉への想いだけはどんな強者にも負けません!

 前話では、弧次郎たちが命がけで運んで来た鯛のお刺身を食べる時行の背景が、鎌倉の海や街のにぎわい、兄の邦時で……私も年をとって涙もろくなってきました。

 時行の思い出の地を汚す直義、許せん!といったところですが、足利尊氏・直義兄弟も実は鎌倉育ちで、足利(現在の栃木県南西部)の地では生活していない可能性が高いといった話を聞きました。
 このシリーズでも何度か触れていますが、仲の良かった尊氏と直義でしたが、のちに決定的な対立が起きます。

 再び「ゆっくり南北朝チャンネル」の動画です。直義にとっては兄・尊氏と鎌倉への想いが一体のものだったという解釈がされていました。

【ゆっくり歴史】足利直義!全権を握った御舎弟・兄弟の愛と悲しさ【南北朝時代(日本の歴史)】

https://www.youtube.com/watch?v=sVvVYyUtGPY&t=508s

 それを言えば、諏訪氏もまた、幕府の要職に就いて、信濃ではなく鎌倉で生活をしていた者たちが多かったということを聞きました。もしかしたら、頼重もそうかもしれないとも……。
 先に、諏訪の地で頼重の墓所も訪れました。しかし、何となくではあるのですが、頼重の魂は鎌倉にいそうな気がしました(解説をしてくださった地元の研究者が、〝この墓石が頼重の物だという根拠がなく怪しいと〟言ったからというわけではありませんが(笑))。

 鎌倉の地が武士たちにとって特別な地であり、中でも時行が生涯そこを目指して何度でも立ち上がったその思い、決して直義には負けるはずはないと、第33話の最後のコマには思わず私も力が入ってしまいました。

 「地獄の底までお仕え致しましょう」(第1話・頼重のセリフ) 
 ーーそしてきっと、頼重もその時行とずっと一緒のような気がするのです。

〔阿部猛・佐藤和彦編集『日本中世史事典』(朝倉書店)を参照しています。〕


 私が所属している「南北朝時代を楽しむ会」では、時行の生きた時代のことを、仲間と〝楽しく〟学ぶことができます!


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